少子化 続きの続き

 で、何の話だったか忘れかけたが、子育てである。労働力商品は特殊であって、その生産(再生産)は、短期的には明日もまた元気に職場に出勤することであり、長期的には退職と引き替えに職場に元気な子どもを就職させることである。合わせた費用(労働力の再生産費)が(労働の対価と見なされる)労賃であるが、本来資本がすることは金を払うところまでで(実際にはもっと複雑で企業サービスや福祉政策が伴うが)、工場労働は強制できても、「明日のために食事をして健康を維持せよ次世代のために子供を育てよ」という強制はできない。それらは労働者のプライベート領域であって(と見なされ)、食欲と子育て欲という「自然」(と見なされるもの)にまかせられる。
 曲者は後者である。
 前にもいったように(と思うが?)、実際の資本主義は家父長制も性差別も大いに利用するが、しかし近代(資本主義)は、それら「経済外的」な社会モメントを強く「批判」する。
 ところで、近代資本主義の原動力は「分業」であるが、それら分業体を複雑に組み立てて付加価値の複合体である商品を作り上げてゆくのは取引(交換)である。もちろんここでも、実際には世の中アンフェアなトレードだらけなのだが、本来資本主義は取引過程がフェア(等価)でも生産過程で利潤が生みだされるというシステムであって、近代(資本主義)は、アンフェアな分業を「差別と支配の源」だと「批判」する。
 性的分業はどうか。農業と繊維産業の「経済的」分業は問題ないが、「アダムが耕しイヴが機を織る」分業は、性差別と家父長制支配の源として「批判」される。それでも、仕事を取り替えたり二人でしたりすることで、批判は回避できるだろう。だが、農産物や布地の生産ではなく、明日の自分や次世代の自分の「再生産」は?
 これまで、「子をなす」「子育て」などといいつつ、意図的に「妊娠、出産」という語を使ってこなかった。マンガはもちろん小説やドラマや映画では、昨今の驚異的な技術展開を更に進めて、培養槽やクローンやアンドロイドといった(性分業なしの)「(人間の、または代替の)労働者の生産」をめぐる話が溢れている。今そういった話がしきりに創られるのは、妊娠出産という生身の性分業が、今のところ入れ替えも共同作業も不可能な「固定された分業」だからだろう。
 農耕と機織りはもちろん軍隊と売春も、今やアダムとイヴに固定されてはいないが、妊娠出産だけは、一方的なハンディキャップとして固定されている。人種別でも性別でも何でも、否応なく割り当てられ固定される分業は、近代(資本主義)の「批判」対象である。
 いつの間にか、怪しいトンデモ説のようになって来たが、行き掛かり上、仕方がない。「資本(主義)」は少子化に困って女性が「産む」ことを熱望するが、「近代(資本)主義」は女性(だけ)が「産む」ことを「批判」せざるをえない。政府が「女性活躍」というのはモノ、サービスの生産活動のことであって、間違えてもヒト(子ども)の生産活動のことではない。大っぴらには絶対言えない。(続く)