2013-05-01から1ヶ月間の記事一覧

 漱石 1911年の頃 24:イプセンとイノセント3

「若し日本の婦人がノラを見て所謂覚醒したと言ふ様な事を言ふ様になつたら余程考へものである。〜然し今の所先ず其の心配は無用だと信ずる。ノラを生囓りして覚醒する様な婦人は無い事と安心して差支あるまい」。漱石は、そういったのでした。けれども、フ…

 漱石 1911年の頃 23:イプセンとイノセント2

ノラといえば松井須磨子。11年秋のノラを、漱石も招待されて観に行きます。例えば花柳章太郎に「須磨子をみて女形をやめようかと思った」と言わせた程の演技でもあったそうで、とにかく大変な評判になった須磨子ノラですが、漱石は、11.28.の日記で、「すま…

 漱石 1911年の頃 22:イプセンとイノセント1

最初に、お詫びして訂正させて頂きます。先に、天皇が「スーツズボンに革靴シャツの袖まくり」でお手植えと書きましたが、昨日のニュースでは、今年は「麦わら帽子に長靴姿」だったようですね。昭和天皇の写真を見た記憶によったのですが、改めて画像検索し…

 漱石 1911年の頃 21:箕面と和歌浦3

細かいことですが、衝濤館は、百間が「先生の宿」と書いているだけでなく、12日付の漱石の日記に、箕面での散策休憩のあと、「〜又電車で梅田に帰る、夫から直に明石に向ふ。〜8時30分明石着衝濤館に入る」と明記されていて、その日の宿所に間違いないと思い…

 漱石 1911年の頃 20:箕面と和歌浦2

さて、箕面散策の後漱石は、明石の旅館に移りますが、その衝濤館という旅館の様子については、内田百間が詳しく伝えてくれています。当時はまだ学生で、夏休みで岡山に帰省していた百間は、漱石先生が明石で講演されると聞いて衝濤館を訪ねるのですが、あた…

 漱石 1911年の頃 19:箕面と和歌浦1

どうも、ちょっと硬いいい方をしてしまいました。もちろん研究者の方々からの反証もあるでしょうし、「併合」について格別の思いがなかったようだといっても、前にも引用しましたが、「日本人は頼母しい国民だ」「何処へ行つても肩身が広くつて心持が宜い」…

 漱石 1911年の頃 18:戦争と併合3

前回最後の問題はしばらくおきますが、ともかく13年の講演で漱石は、自信をもて、といったのでした。今や様々な分野で、「本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期」が来ている。例えば日本の文芸などは、もはや充分オリジナリテーをもって…