いくらで人は人でなくなるか

 内外の政治に通じた政治学者でも、最近物忘れがひどいお年寄りでも、一票は一票。民主主義というシステムは、この原則にこそ立っている。20才を越えればどんな人も、「政治的判断ができる」という点では平等だとされているわけである。
 ただし、いわゆる塀の中の人々や公民権停止中の人は別として、政治的な「判断能力がない」とされる人々がいる。裁判所によって財産処分権を奪われ後見人が選任された、いわゆる禁治産者である。彼または彼女は、大人でありながら、私的所有を基礎とするこの社会において、いわば基本的な「人格」をもたないと判定される。
 一方、刑事事件については、少年法適用年齢を越えればどんな人も「善悪の判断ができる」ということになっているのだが、ただしここでも、ご承知のように、その「判断ができない」とされる人々がいる。
 人を殺しても、時には罪にならない。といういい方は穏当ではないが、善悪の「判断能力がない」と判定されれば無罪になる場合があるわけだ。もちろん、殺人者にとって、無罪は大変有り難いことである。というか、これ以上有り難いことはない。だから、精神鑑定を要求して無罪を主張してきた弁護士などは、それを「勝ち取った」といったりするのである。けれども、裁判所が無罪の判決を出したのは、この人は行為責任を伴う「人格」主体ではない、と判定したからである。
 刑事法が専門の佐藤直樹氏は、「刑法上、理性的人間像は、近代になって成立したものだ」が、人間とは自ら自由に判断できる個人だという「その建前が今、限界に来ている」と指摘した上で、「精神障害者を裁判を受ける権利から排除し、『人間』と見なしていない」刑法39条の削除を打ち出しているという(個々の事例は情状判断の中でくみ取ればよいと)。(朝日新聞9日夕刊)

 もちろん、禁治産者も刑法39条適用者も、民法上刑法上の社会的「人格」を奪われても、基本的な「人権」を奪われるわけではないが、では社会的「人格」を奪われた後の「人権」とはどのようにイメージされるのか、またその境界はどこら辺りにあるのだろうか。これは、「人間」というもののイメージに関わる問題である。
 かつて、女性を殺してその肉を調理して食べた男がいた。彼は無罪となって強制入院−強制送還させられたが、結局それほど期間をおかずに退院したという記憶がある。おそらく病院内の言動には、<異常>であるという兆候が見られなかったのであろう。思うにそれは、<治った>ということではなかっただろう。
 もし彼が人を殺しただけだったなら、当然有罪になった。けれども、食肉という行為は、裁判官の「人格存在=人間」イメージを越えていたのだと思われる。もちろんそれは、裁判官の個人的なイメージではなく、現在社会の共同イメージに他ならない。ちなみに、医師の<鑑定>といっても、別の基準があるわけではなく、その机には、社会の共同イメージを整理したリストがあるだけである。

 幼い孫の名前を思い出せなくても、選挙権を認められる程度には充分「人」である。幼いわが子を殺しても、有罪判決を下される程度には充分「人」である。しかし、時に人は、「人」とは認められないことがある。
 とはいえ私は、例えば人を殺しても時に無罪になるのは不当だ、などといおうとしているのではない。また、例えば、有罪になると選挙権は奪われるが、判断能力がないとして無罪となると、逆に選挙権は奪われない、というような不思議な事態が起こるのかどうか。そういったことについても、吟味する能力も知識もないし、さしあたり興味はない。
 ただ私は、どんな社会にも「人」についての一定の共同イメージがあり、それを越えると、「人」として認められなくなり、社会的「人格」を奪われる・・・という、そのことを確認した上で、実は、次の実験を期待したかったのである。

 刑法に関して、無罪となるひとつの限界は、「人肉を喰う」ということにあるらしいということが、かの勇敢な食人者S氏によって明らかにされた。そこで、禁治産者に関しても、勇敢に限界に挑戦する者が現れることを、私は期待しているのである。・・・数万円程度では全く話にならないので、私にはとうてい挑戦資格がない。誰か、せめて10億円できれば100億円程度の札束を用意して、山谷か釜が崎、その他どこでもよいが、そういったところへ行き、札束の帯封を切って全額を撒き散らしてみてほしい。果たして、素晴らしく慈悲深い「人」だと<神聖>視されるか、それともあわてて家族親類から禁治産者の<申請>が出されるか。「人」が「人」でなくなる境は、果たして幾ら位なのだろうか。