F・ノート14

 もうひとつ、オマケというか補足というか。
 前に、ものを身体に取り込むのは口に入ったときか呑み込んだときか消化吸収したときかなどといったことなどこだわる必要はないといった。つまり、どこから身体なのかは曖昧であるが、別にそれで構わないとといったのである。
 もう少し別の方にひろげると、世界が行動によって規定されるということは、身体というものが、生理的に限定された脚や眼に限定されるものではないことを意味する。私はジェット機ではないのだから、といったばかりの前言に反するようだが、私はジェット機を操縦することもあって、そのとき私は数キロの距離を5秒で飛び越えて、海岸に出られるだろう。あるいは、散歩の途中なら私は幅1メートルの溝の前で立ちすくむが、スキーで滑っている途中なら飛び越そうとするだろう。そのとき私は、いちいち自分の身体条件(下駄かスキーかといった)をふり返る暇もなく、溝の向こう側のその「向こう」が、「立ちすくむ距離」か「飛び越せる距離」かのいずれかであるような、そのような世界にいる。
 あるいはまた。探偵である私が事務所に戻ったとき、真っ暗な室内に人の気配はないが、それでも何だか様子がおかしい。床をさぐりながら室内に足を踏み入れた私は、何か軟らかい大きなモノを触って驚く。そのとき私が倒れている死体を「触って、感じた」のは、持っていた傘の先か、はめていた手袋か、それとも生理的な指なのか。これまたどうでもよいが、おそらく、私の皮膚は傘の先にあるというのが、その行動世界にはふさわしいだろう。
 これ以上には広げないが、以下、世界というときには、おそらくそういうつもりで使う筈である。ただし、別にそれによってどうという違いはないだろう。