F・ノート13

 閑話休題
 経験世界を論じるとき、軽視されて来たことのひとつは、スケールの問題であるように思われるがどうであろうか。例えば、先に、世界はテレビ画面のように一瞬にして切り替わらないといったが、それは、あくまで「私の」世界についてである。もし私がジェット機のように早い脚と蝸牛のように遅い眼をもっているとすれば、私は5秒で海へ行き、そしてその5秒を一瞬にしか思えないだろう。この部屋が何も「ない」きれいな部屋なのは、私が空気中にも絨毯にも「ある」微少な無数の塵を見分けられないからである。私は生活行動に不要な分節はしない。知覚世界のスケールは、生活行動にとって必要かつ充分な範囲内にある。
 閑話休題といったばかりだが、また閑話・・・。超一流の野球選手には速球が止まって見えるとかボールの縫い目が見えるとかいう話があるが、彼らは見分けられるから打てるし打てるから見分けられる。そういえば、中島敦の「名人伝」は、邯鄲の人紀昌が、ついには老師甘蠅によって「不射之射」を体得する迄になる話であるが、そのはじめ、師の飛衛が彼に先ず命じたのは眼の鍛錬であって、虱が馬のような大きさに見えるようになって初めて彼は、奥義を授けられる資格をえたのであった。
 身体と行動を勘定に入れない世界論は、人間中心主義的であることを自覚していない。などと大きく出るとまずいのであって、われわれもまた、人の生活世界こそを問題にしたいのであるが。