再開

 何となく2ヶ月近く中断した。その間覗いてくれた方には申し訳なく、当分毎週更新を目標にしたい。
 さて、最近の世の中の動きは無視して、軽く本のネタでも。
 たまに贈って頂くものは別にして、新書文庫以外の本は原則<買わない読まない置かない>のだが、たまたま最近、日をおかず本屋と図書館で、『反音楽史』というすごいタイトルの本を目にした。といっても<3ない>故に出会う機会がなかっただけで、新刊ではないのだが。
 有名出版社の発行で、やたら大きい題字が目を引く分厚い本である。それに見合って、意気込みがすごい。「いまから私の始めようとする仕事は、日本だけでなく、世界にはびこっている"クラシック"音楽ないしはその"音楽史"の通念を破壊」することだ、と冒頭で著者はいう。副題は「さらば、ベートーヴェン」。つまり著者は、音楽といえばクラシック、クラシックといえばベートーヴェンを頂点とするドイツ音楽という、「音楽史の通念を破壊」するという、実にすごいことをしようというのである。
 これは実にすごいことであって、このような、「古くさい音楽史の世界とは一線を画す破壊的な言動は、いまの学者たちの間からは生まれてこない」。学者だけではない。「学者、評論家、作曲家、演奏家のいずれを問わず、この世界でメシを食っている人間たち」は、例えば「「クラシックもポップスも昔は差別はなかった」などとは、間違っても、口が裂けてもいえない」のだそうで、つまり著者は、誰もが「間違っても、口が裂けても」いえなかったことを自分がいうのだ、と宣言するのである。
 とはいえ、正直いって、ここまでである。いや、ここまでで既に、失礼ながら羊頭狗肉がばれている。「反音楽史」というデカイ題にもかかわらず、とりあげるのは「"クラシック"音楽ないしはその"音楽史"」だそうで、何のことはない、著者自身にとっても、「音楽」「音楽史」とは、(広義の)「クラシック音楽」とその歴史でしかない。あるいはまた、クラシックがえらいわけではないという程度のことはそこらのミュージシャンならいおうと思えばいくらでもいえるのだから、著者のいう、そういうことは「間違っても、口が裂けてもいえない」(本当かね)「この世界」というのも、クラシック音楽の「世界」以外ではないだろう。
 というわけで、大著のほとんどを費やして著者がする「仕事」とは、宮廷オペラを中心とする「すばらしいイタリア音楽」を引き合いに出しつつ、田舎者の「あざとい人工音楽」にすぎないドイツ音楽を頂点に位置づける「クラシック音楽史」を見直すことである。近世には粗野な田舎でしかなかった非地中海西欧に、過剰な自意識をもった西洋近代文化が成長しある期間君臨するという、よくある話の音楽版であるが、その限りでの著者の蘊蓄話は、それはそれで結構である。地域的に非西欧世界の音楽などには目もくれなくとも、西欧世界でも、「いわゆる三和音の音楽」ではない「民謡や酒場音楽」や「教会音楽」は無視し、「中世には今日的な意味での音楽はなかった」と切り捨てようとも、別に問題はない。ただしそれは、たかだか「クラシック音楽史」に限定された蘊蓄話をもって、「反音楽史」などと大見得を切らなければ、の話である。
 いまさら、イタリア音楽でドイツ音楽を、18世紀で19世紀を、近世で近代を、それも宮廷音楽でコンサートホール音楽を<相対化>することを、つまり、広義の西欧クラシック音楽で狭義のそれを相対化することを、「古くさい音楽史の世界とは一線を画す」「反音楽史」と力まれても恥ずかしい。せめて半世紀前ならいざ知らず、失礼ながら「いまさら」何をおっしゃるやら、である。いまどき、高校生のバンドが学園祭で「ベートーヴェンなんかクソ食らえ」などと歌っても失笑を買うだけだろう。「反スポーツ史」という大題で「スポーツといえば野球、野球といえばナガシマだ巨人だという通念を破壊する」というから何の話かと思えば、「神様仏様稲尾様」の西鉄を忘れてももらっちゃ困る、といわれるようなものである。
 思わずいい過ぎてしまった。長年クラシック音楽史を研究されてきた著者の折角の労作に対して申し訳ない。昭和一桁生まれで、ずっと「音楽史クラシック音楽史」の世界で生きてこられた著者にとっては、「さらばべートーヴェン」とようやく口にできたことは、確かに、「通念を破壊する」すごいことと自覚されたのでもあろう。しかし、付け足しだが・・・例えばたまたま手元に、『反音楽史』の著者よりもなお年長の、団伊玖磨氏と小泉文夫氏が対談している新書本がある(講談社現代新書『日本音楽の再発見』)。両氏は、殊更「反音楽史」とか「通念の破壊」などと力んではいないが、しかし両氏が「音楽」と「音楽史」を<相対化>する「仕事」の領域は、中世はもちろん古代にまで及び、アジア、アフリカをはじめ世界のあらゆる辺境音楽にまで及んでいる。そしてその根底には、そもそも人間にとって「音楽とは何か」という根源的な問いがある。・・・ただし、『反音楽史』の著者は、「古くさい音楽史の世界とは一線を画す破壊的な言動は、いまの学者たちの間からは生まれてこない」といい、およそ「学者、評論家、作曲家、演奏家のいずれを問わず、この世界でメシを食っている人間たち」は、例えば「「クラシックもポップスも昔は差別はなかった」などとは、間違っても、口が裂けてもいえない」といっていたから、さしずめ小泉文夫氏は「学者」ではなく、団伊玖磨氏は「作曲家」ではないのであろう。
 以上、書くほどのないことを長々と書いてしまった。