教科書検定

 沖縄戦での「集団自決(強制集団死)」について、またも「軍の関与」が問題化したが、激しい抗議にもかかわらず、これもまたウヤムヤに処理されようとしているようである。
 少なくともマスコミ報道の範囲内では、抗議は、軍の関与は否定できない歴史的事実だということを根拠に、「検定意見の撤回」ひいては「記述削除の撤回」を文科省に求める、というものであるようである。それに対して、
 文科大臣曰く、「検定審議会の意見に政府が介入することはあってはならない」。・・・一応、検定は中立であるべきだという立場に立って見せたのである。もちろん本心は全く別で、「検定に政府が介入していいんですかね」と、嫌味を言っているのであろうけれども。
 一方、『赤旗』(ネットによる)の見出しに曰く、(今回の検定意見は)「検定基準にも反する」。・・・一応、検定基準なるものを認めて見せたのである。もちろん本心は全く別で、「検定基準を軽視するようなことでもいいんですかね」と、嫌味を言っているのではあろうけれども。
 こういう嫌味の応酬のようなことが起こるのも、攻防点が、「撤回するか/しないか」、「削除するか/しないか」というところに置かれているからだろう。
 もちろん、沖縄の人々を中心に激しい怒りの声があがったのは、沖縄戦での「集団自決(強制集団死)」というこの件に関する、痛切な思いからである。だがもし抗議が、<この件の>「検定意見を撤回せよ、記事削除を撤回せよ」、という要求に留まるとするなら、政府文科省は、「介入していいんですかね」と嫌味をいいつつ、「じゃ、この件の教科書記述は見逃すようにすれば、文句ないんでしょ」と、ゴマカシ処理をしてしまうかもしれない。
 例えば大臣が重大な失言をすれば、その発言だけを撤回すればすむのではなく、その大臣の解任や首相の任命責任が問題となる。この件についても、いま仮に検定制度そのものの問題はしばらくおくとしても、この件の検定意見の歴史的事実の無視や歪曲が重大なことであるとするなら、この件の意見だけを撤回すればすむのではなく、少なくとも、歴史的事実に反するような検定意見をまとめた審議会とそのメンバーの責任と資質、また任命権者の任命責任が、ただちに問題となる筈である。抗議する側もマスコミも、そのような点にまで踏み込んで抗議や批判の矛先を向けるならば、文科省や大臣も、「介入していいんですかね」とか「この件の削除をやめれば文句ないんでしょ」といっていられるような余裕はない筈であるのだが。