1905年

 イギリスの話がでましたのので、ちょっと1905年、明治でいえば38年という年を思い出しておきます。
 イギリスの植民地支配が文字通り世界を覆っていた20世紀初頭。「大日本帝国」は「大英帝国」と同盟を結びます。そしてこの年1905年。ロシアの艦隊を海上で破り、イギリスの宿敵に勝利を収めようとしていた日本は、夏8月に日英同盟を改訂(第二次日英同盟)し、イギリスのインド支配と日本の朝鮮支配を認め合う相互関係を強化します。
 そして11月、日本は第二次「日韓協約」の「締結」を強要しますが、それは、韓国に統監府を設置し、外交権を支配下に置いて、韓国を事実上保護国とするものでした。韓国の高宗は、この「乙巳保護条約」の強制的な「締結」は無効であると万国平和会議に訴えますが、無視されます。日本の朝鮮支配は、日英同盟を通して、列強に黙認されていたからです。以後、日本が、韓国の激しい抵抗を押し潰して、内政権、軍事権を掌握してゆき、1910年の「韓国併合」に至る歴史は、ご承知の通りです。
 さて、日本が、それまで名前も定まらなかった小島に「竹島」と命名し、島根県の所管としたのも、他ならぬこの年1905年のことでした。
 領有権を巡る純法理論的な議論は、私にはできません。しかし、この問題は、韓国の人々にとっては、譲れない思いがこみ上げる「歴史問題」であることは、十分理解できます。