エコと反エコ 

 政府御用達放送NHKのことを暮れに書いた際には、「「エコのため」などということ自体が胡散臭いがこの際それはいわないことにして」、と通り過ぎたのだが・・・
 ともかく昨今は、世の中あげてエコでありストップ温暖化である。現世紀人類最大の課題が、例えば核兵器廃棄でも戦争廃棄でも餓死ゼロでもなく、二酸化炭素の排出量を減らすことに向けられているかのような現状は、どこかあやしい。第一、温暖化といわれても、私たちが実感的にいえることは、せいぜい、暖房の効いた部屋で、「昔の冬は、もっと寒かったよなあ」という程度のことであるに過ぎないのだから。
 ところが、私たちは、「A:全地球的な規模で、かつてなかったような温暖化が、異常な速さで進行中であること」、「B:その原因は、人間が化石燃料を使って出す二酸化炭素にあること」、そして「C:温暖化は、人類にとって破滅的な事態をもたらすこと」、といったことを強く信じている。何故だろうか。もちろんそれは、専らマスコミの力による。NHKなどのTVで、衝撃的なそれらしい映像や権威的なそれらしい科学的説明でできた「キャンペーン番組」を、これだけ何度も見せられていると、誰しもすっかりABCを信じてしまう。ところが、もちろん、「キャンペーン」とは、<意図的>な報道に他ならない。もしかすると、私たちは、どこかへ誘導されているのかもしれないという気もぬぐえない。
 例えば、北極や南極で、氷河の末端とか棚氷とかから実に巨大な氷塊がドドーッと海に崩れ落ちる映像なんかを見せられると、温暖化の恐怖に戦くのであるが、考えて見ればタイタニックもペンギンも昔から氷山であって、つまりあの映像のようなことは、昔からあったのではなかろうか、とふと思ったり。それというのも、NHKをはじめマスコミには何度も騙されて来たからである。
 という気持ちをもつ人が少なからずいるので、武田邦彦氏のような人の本が、評判になったりもするのであろう。例えば、『日本人はなぜ環境問題にだまされるのか』という新書本によれば、政府やエコ業界の意向を受けて、NHKは、意図的に、誤ったデータを使ったり、あるデータを隠したり、恣意的に解釈したりして、「キャンペーン」的報道を行っているらしい。らしいというより、どうもそれは本当のことのようである。というわけで、少なくとも、上記ABCそれぞれについて、一方的ではない検討が必要であるという氏の異議申し立ては、それなりに納得できる。エコとか温暖化といった問題を、「キャンペーン」としてではなく「科学的検討課題」として冷静に再検討すべきだというのは、その通りであろう。
 ところがである。どうも、もうひとつしっくりこない。それは、武田氏の本自身が、緻密で控えめな科学書の域を超えて、題名から見ても分かるように、反エコの「キャンペーン」本になってしまっているからである。エコが時流である時代には、反エコもまた時流に乗った話題となる。氏は、次々と同種の本を出しているようで、だからなのかどうか、私は1冊しか読んでいないが、とにかく論述が雑である。
 いくつもあるが、一例だけあげる。少なくとも私は、こういう論述箇所は全く読めない。
 日本では年間に、鉄鋼が7000万トンと消費量が多く、紙や木材が3000万トン、プラスチックが1400万トンなど、商品のおもな材料として使われています。
 なかでもCO2が原料である石灰石(石灰岩の鉱石名)の産出量は、じつに2億トンで世界でも群を抜いています。(以下略)

 エコが絶対正義になってしまっているかのような現状への異議申し立てとして、納得できる内容も少なくないにもかかわらず、こんな雑な論述が出てくるにつれ、次第にトンデモ本の類にみえて来るのは、惜しいことである。
 さて、そこでどうするか。私は、さしあたり、「パスカルの賭け」に倣うことを思いついた。といっても大した計算をする必要はない。
 簡単化すると、エコキャンペーンは、「人類がエコ生活をすれば地球環境は何とか現状維持できるが、しなければ破滅的事態になる」といい、一方武田氏の反エコキャンペーンは、「イケイケどんどん生活でも大丈夫。むしろその方が現状よりよくなる」という。
 人類全体が、エコに賭けても反エコに賭けても、賭けに勝てば問題はない。問題は負けた場合である。
 エコに賭けて、例えば30年後に負けた場合。人は「エコけち節約地味生活はムダだった!」と嘆くことになるが、まあ、大したことはないだろう。もしそうしたければ、パーッと明るく失われた30年を取り返せばよい。
 だが一方、反エコに賭けて負けた場合。地球環境は破滅的事態となっている。「イケイケどんどんはまずかった!」と嘆いても、環境破壊を取り戻すことはできない。
 もちろん、イケイケ生活とエコ生活の差分はあるわけで、結局氏は、エコ生活のケチ地味生活がものすごくお嫌いなのだろう。しかし、この賭では、破滅的事態が<地獄ドボン>の働きをする。たとえ氏の方が99%正しくても、つまり勝率99%であっても(その程度なら)、冷静に計算すれば、少なくとも今のところ、この賭では反エコに賭けるべきではない。雑な本であっても、エコキャンペーンの問題点の指摘には結構納得できるのだが、しかし「イケイケどんどん」キャンペーンはいただけない。
 例えば、アメリカ産牛肉を食べているのだからアメリカ人はそのうちみんな狂牛病になる、などということは、1%どころかもっともっとずっと確率が低いだろう。なお一層のフェイルセーフ策を提案しつ慎重に現在の危険性の低さを指摘する科学者については、私は信用する。しかし、「このデータを見ろ。狂牛病だなんてそんなの関係ねえ。アメ牛肉どんどん喰おう」、などと本を書き散らすような連中は信用しない。トンデモ学者というのは、どこにもいるのである。それは、使っているデータが正しいかどうか、という問題ではない。時流に乗って書き散らす言葉の軽さの問題である。
 長々と書くほどのことではなかった。実は同時に、湯浅誠氏の『反貧困』を買ったのであって、その一行一行の論述の緻密さと重さがに比べ、反エコキャンペーン本の雑な論述が、余りにも比べものにならなかったせいである。冷静に言い直せば、武田氏の本のデータにはなるほどと思うことも少なくなく、エコが、意図的な「キャンペーン」であることについて、改めて考えさせてくれる。だが、この本はそれ以上であって、エコキャンペーンを疑う気持ちと同時に、反エコキャンペーンを疑う気持ちにもなってしまう。そこまで考えれば、うまくできた本である。それまでもが意図的だとすれば、その高等戦術には脱帽。