ライト(1)

 梅図かずおに『神の左手悪魔の右手』というマンガがありますが、キリスト教図像の神は、普通は右手で善人に昇天を促し左手で罪人を地獄に追いやっています。このように rightは「右」であり「正義」なのですと、英文の先生に聞いたことがありますが、ともあれ聖書には、天上に昇ったイエスが神の右に座ったという記述があり、「右」は全知全能と力の側にあてられているようです。
 ただし、対立二項への割り振りというのは全ての文化の基礎なので、左右もまたしばしば、善/悪や聖/卑や浄/穢に割り当てられますが、上下(天地)とは異なり、左右の割り当ては、私たちの国などでも顕著なように、時代や地域や場面に応じて、しばしば反転し混乱します。多分それは、逆立ちして暮らす人はいないが左利きの人は少なくないという、単純な事情に結局由来するのでしょう。
 ただし、ある文化圏内で一旦ベクトルが定まると、左右もまた、結構強い規制力を持つこともありますので、例えばイスラム教やヒンドゥー教の国では、たとえ左利きの人でも、左手で菓子を触ったり子供の頭を撫でたりするのはまずいと、旅行案内などにも書かれています。
 そういう意味では、「右 right」といえばそれでもう「正しい right」といったことになるというのですから、英語の規制力は否応なしです。
 もちろん、実際の発語場面では、「右」といいながら「正しい」といわないわけにはゆかないという事情を緩和するために、複数形にしたり冠詞をつけたりするわけでしょうが、そういう区別も含めて、どの程度まで重なりが意識されるのかしないのかについての機微は、ネイティヴにしか分かりません。
 とにかく、ゲルマン語起源の英語で何故「右」と「正」が重なったのかは全く知りませんが、right という語を辞書で引くと、どの品詞も、あらゆる意味の「正」や「直」、プラス価値のオンパレードが見られます。 
 念のため付け加えておきますが、以上のようなことを、おかしいとか不便だろうとかいいたいのでは全くありません。どんな言葉についても、何故そうなのかと、他の言語文化から問うことは、全く余計なお節介というものです。例えば、外国人から、「「日」という漢字は、ヒ、ニチ、ジツと読むだけでなく、アシタ、アサッテ、キョウ、オトトイと読みツイタチ、フツカと読む。一体どうなってるのか?!」、などと問われても困るようにです。(続く)