下町はえらい3−3

 (先日は、夜UP翌朝削除(^o^)、失礼しました。少し忙しい上に、どうもうまくゆかないので、中断しようかと思いましたが、まあ、続けます。)
 改めて、こういうことでした。
 「宮崎さんは今度の作品では、かなりしっかりと昭和史を描かれたなあ、と思いました」。「ぼくはやっぱり親父が生きた昭和を描かなくてはいけないと思いました」。「親父」のような生き方。「当時日本人のほとんどは、そうでしたよ」。
 「下町の昭和史」を描くことが「しっかりと昭和史を描」くことになる、下町に生きる人々を描くことが「当時日本人のほとんど」を描くことになる、という確信がそこにあります。
 描きたかった下町の人々は、「世界がいろいろ動いていてもあまり関心をもってない日本人。つまり自分の親父です」。
 日頃地方の「貧農」にも、「軍部」の動きにも「関心」がなく、あるいは優れた戦闘機を設計しても、その部品を作って大儲けしても、翼賛戦争体制の一翼を担っても、戦争そのものには「あまり関心をもっていな」かった人々。自分の行動がどういう歴史的意味をもつかといったことに「あまり関心を」持たずに、「いい時代を謳歌していた」人々。
 「戦争をしたのは軍部であって、自分ではない」とご父君はいわれます。軍部といういい方が絶妙です。「戦争をした」のが「日本軍」なら、最高司令官である天皇から自分たち兵士にまで、責任問題が残るでしょう。でも「軍部」といえば、陸海軍の中枢だけに絞られます。商人や職人が昔ながらに暮らす下町から見れば、無謀な戦争をはじめた「軍部」や政府高官たちもまた、<よそ者>なのでしょう。
 実際、長閥、薩閥はもちろん、「ぼくは軍人大好きよ/今に大きくなったなら」と、地方第一の秀才は先ず軍人を目指し、次が中央官僚となって、帝都に集まり、市ヶ谷とか霞ヶ関とかで権勢を振るいます。思えば、無血開城の上に上野の山も落ち、田舎侍の牛耳る新興帝国の首都「東京」が「江戸」の上に乗っかったのが「けしからぬ近代」のはじまりでした。「お膝元」の江戸の町で、サーベル吊った巡査に、「おい、こら、なんしちょっか」などと誰何される屈辱。「田舎者が何いってやがる」。(ちなみに、「こら」は「これは」だそうですね)
 しかし国家支配のためにはこれではまずいので、「標準」国家語が作られ、帝都に集まる地方秀才たちは、生まれ育った土地のことばを捨てて、国家語を身に付けてゆきます。もちろん、ことばだけではなく、また軍人役人に限ったことでもありません。飛行機を設計する、映画を作る、その他何をするにしても、「世」に認められ名をあげんと志を立てた人々は帝都に上り、うさぎ追いしふるさとは遠くにありて夜なべして手袋編んでくれた父母いかにおわす恙なきや友垣と思えども、一度郷門を出たからにはよしや異土の乞食となるとても帰らじと、生まれ育った全てをあるいは捨てあるいは踏み台にしあるいは裏切った歴史を背負います。
 オーバーは書き方をしましたが、宮崎監督が、わざわざ「下町」向島に生まれ育った堀辰雄を借りて、堀越二郎の「田舎」を消したのは、そのことを知っていたからでしょう。堀越の「出身地が分かっても調べに行かない。その風景は見に行かない」。「いろいろ掘りだしたら、怖ろしいものがいっぱい出てくるような気もするんです」。
 それに引き替え、下町の人々は、そんな「怖ろしいもの」とは無縁です。生まれ育った町の風景や親父の想い出を、生まれ育ったことばで屈託なく語れるのがえらい。父は「自分の家族は大事にしようと思って、それを最後まで貫きました」、などと単純に語れるのがえらい。(続く)