帝国の慰安婦:安堵の共同性9

 朴裕河氏の裁判に関する小さいニュースが流れました。この雑文の表題にある「帝国の慰安婦」、正確には『帝国の慰安婦−植民地支配と記憶の闘い』の著者です。日本では、日本語版が言論人に高く評価紹介されますが、韓国では告発されて発禁になり、それを上野千鶴子高橋源一郎氏らが出版弾圧だと抗議するのですが、後、『帝国の慰安婦』の内容を徹底批判し、日本言論人を告発した、在日韓国人栄桓鄭氏の『忘却のための「和解」―『帝国の慰安婦』と日本の責任』が出版されます。
 ということらしいのですが、いつものことながら、そこへ行き着く前に、どんどん横道に紛れ込んだまま彷徨っています。
 
 「鎖に繋がれている間は捕虜、鎖を外された者が奴隷。」(オクタビウス)
 
 買われた少女は、泣き叫びながらレイプされたとしても、やがて、涙も枯れて我が身の運命に身をまかせ、自ら白粉を塗る身になるでしょう。そして、こんなところでただ身体だけを抱く客の男に、自分と同じ哀しい身の上を感じたりさえするかもしれません。
 仮に、仮にですが、もしそうだとしても、だから何だというのでしょうか。
 
 「どうして・・・ああ、どうしてなの。ずっと家族のように暮らしてきたのに・・・」
 「そうです、奥様。私はあの小屋で生まれ育って、旦那様や奥様がお住いになっているこの家や、畑や、そして牧場をお守りして来ました。家族のように?・・・そういって頂けるのなら、そうかもしれません。昨年、お嬢様が結婚して家を出てゆかれた時には、涙が流れましたから。
 「それなのに、どうして。・・・どうして主人を・・・」
 「どうして、とおっしゃるのですか。どうして、ではなく、だから、なのですよ、奥様。」
 「分からない・・・」
 「分からないのは、多分、奥様はニグロじゃないからでしょう。・・・すみません。もう行かねばなりません。このライフルは、頂いてゆきます。北軍には銃が足りないらしいので。」(ワイズミュラー『草原の旗』)
                                        (続く)