アジアあるいは義侠について13:勝てば官軍

 南北首脳の会談が新しい歴史を開きそうです。でも、分断の大本である日本の植民地化が改めて話題になっているようには見えません。いまさらですが征韓論のことを取り上げるのも意味が無くはないかもしれません。
 とはいうものの、雑談とはいえ幼稚な内容で、だんだんやる気がなくなって来ましたが、西郷の話でした。
  
 「西郷を反革命と見るか、永久革命のシンボルと見るかは、容易に片づかぬ議論のある問題だろう。しかし、この問題と相関的でなくてはアジア主義は定義しがたい。」
  
 これが竹内の問題で、そして中島氏は、次のように受けたのでした。
 
 「西郷の「使節派遣論」を〜「反革命」という文脈で捉えると、「覇道」的な「征韓論」とな」り、「〜永久革命のシンボル」という文脈で捉えると、「王道」的な連帯論となって現れます。これが竹内の提起した「西郷という問題」であり「アジア主義の課題」でした。
 
 乱暴に言ってしまえば、共通して、「西郷は「反革命」か「永久革命」か、それが問題だ」、というわけですね。少なくともこのいい方は、(西郷が加わっていた)明治維新は「革命」であった、ということを前提にしています。そう考えているかどうかということではなく、「反革命か第二革命か」という問いの立て方が、「第一革命」があった、ということを前提しているということです。
 しかし、これまた乱暴にいってしまえば、日本では、天孫が自らを「正当化」するというシステムですから、天孫が自分自身(の王朝)を「革め」るということは、めったな事では、いや基本的には起こりえません。
 そこで問題は、いわゆる薩長軍です。彼らは戊辰戦後、権力を掌握します。この時、彼らが手にしている最大のものは、戦争の勝利者だということです。しかし、それだけでは簒奪者であっても「正当性」はえられません。で、もうひとつが「錦の御旗」なわけです。つまり「官軍」である、と。
 ただ、私は歴史屋ではないのでよく知りませんが、錦の御旗はどれほどの効果があったのでしょうか。
 承久の乱というのがありますが、朝廷が鎌倉幕府を討てと命令(院宣)を出します。錦の御旗を立てれば全国の武士は「官軍」に参加し、関東方はあっけなく潰せると思いきや、逆賊とされた関東側は「非義の綸旨何するものぞ」と京に攻め寄せ、あっさりと勝って、上皇らを流罪にし、天皇を取り替えてしまいます。
 この時、先発隊としてわずか18騎で鎌倉を出た泰時が引き返してきて、「天皇が自ら兵を率いていたらどうすればよいか」、と義時に尋ねたところ、義時は、「天皇には弓は引けぬ、ただちに降伏するしかあるまい」といったというのですが、これは、歴史家(『増鏡』)の創作ではないかと思いますがどうでしょうか。
 それに学んだのかどうか、戊辰戦争では、各軍のトップには公家が据えられます。しかし、薩長軍が武力の点で強かったのは、錦の御旗の効果よりも、スポンサーのイギリスが提供した鉄砲の性能によるようですし、それ以前に、歴史の風を読んだ各藩が手出しをしない方が得だという政治判断をしたからでしょう。
 またまた横道に入ってしまいましたが、ともかく、薩長は戦争に勝った、そして岩倉を擁して天孫を利用できることになったわけです。