社会の歴史

monduhr2006-11-04

 中沢新一氏の叔父さんが網野義彦氏だそうで、そのことを書いた本の評判がよいらしい。中沢氏のつながりで、ということではないのだが、たまたま寝る前に読む本がなくなり、まだ読んでいなかった網野氏の『日本社会の歴史』を買ってみた。新書版で3冊である。
 昔は唯物史観というのが一世を風靡していたが、いまは司馬史観に交代したように、史学方面でも昔は大塚史学というのがあったが、何といってもいまは網野史学である。「これまでの日本史の常識を次々と覆した」といわれ、研究者の世界を越えて、大きな影響を与えている。網野氏の名前を聞いたことがなくても、「もののけ姫」を見て、自分がもっていた「日本史の常識を覆された」人も多いであろう。
 そんな網野氏がはじめて書いた通史である。面白くない筈がない。新聞の書評などでも、「日本史の常識を覆した」という決まりことばがまたも使われている。というわけで、期待をもって読み始めた。ただ、そもそも肝心の「日本史の常識」そのものの持ち合わせが怪しい私には、網野史学のほんとの面白さが分かっているのかどうか、いささか心許ないのではあるが。
 例えば、「日本というひとつの国はない」というのが、網野テーゼのひとつである。日本なんてものは、昔からあったのではなく、ある程度のまとまりができてからも内に単一でなく、外にも決して閉じてはいない。あるいはまた、有名な「百姓は農民ではない」という網野テーゼもある。百姓は、一つの村に縛り付けられ営々として田畑を耕す農民ではなく、勝手に往来し勝手に生業を営み、多様な縁を結びまた縁を切りつつ、それぞれの時代を自由に生きてきた。
 でまあ、そういう予断が正しいかどうかは別して、期待をもって、「日本社会の歴史」というのを読み始めたのであるが。・・・ ところが、何だかどうも様子が違う。
 ところで、突然であるが、もとはマンガで映画のシリーズも作られた、『ビーバップハイスクール』というのは結構面白いらしい。いや別に、私が実際にみた映画ということで『スイングガールズ』でもいいのだが、やっぱりもうちょっとワルの方がよい。・・・などと書くと、一体何の話かといわれるだろうが、網野史観ビバップハイスクール説というのを、私は今思いついたのである。
 「百姓」という語を例えば『大辞林』でひくと、「農業に従事する人、農民」と出ている。ところで、同じように辞書で「生徒」という語をひくと、「中学校・高等学校で教育を受ける者」とある。百姓といえば「田畑を作る者」で作らせているのがお殿様、高校生といえば「教育を受ける者」で教えているのが高校教師。前近代社会は<領主−農民>関係で捉えられ高校は<教員−生徒>関係で捉えられる。余りにも当たり前の辞書的「常識」である。だが、当たり前の常識ほどつまらぬものはない。
 網野氏は、実に、そのような、面白くもない辞書的常識を覆したのであった。
 生徒は「教育を受ける者」か。生徒は教室で勉強しているか。トンでもない、と網野氏はいう。彼らは教室の外にこそいる。アメリカのスタジアムで球を投げたり、ネパールの田舎で井戸掘りの手伝いをしたりしているだけでなく、マイクの前で狂ったようにギターを引っ掻いていたり、コミケ会場を派手なコスプレでうろついていたり、コンビニ前の地べたに座り込んで携帯を見ていたり、出会い系サイトでひっかけた男と何かしていたり、中にはセーラー服で機関銃を乱射する女子生徒がいるかと思えば、鼻クリップを付けてプールでおかしな泳ぎをしている男子生徒もいるし、ゴクセンも交えて乱闘してる連中もいる、などなどなど。現代高校生百態に描かれるであろう連中は、至るところろにいる。
 「高校生とは、高校の教室で学ぶ者である」という、教育学者や評論家を含めた「常識」を覆し、網野氏は、教室の外で、校則や社会規範の外で、他校の生徒や時には海外の生徒たちとも交流しつつ青春を謳歌する高校生たちの姿を、生き生きと描き出した。「高校生とは、教室で学ぶ者ではない」、というのが、網野史学の面白さなのである。(続)