社会の歴史(続)

monduhr2006-11-06

 「全ての百姓は農民である」といった命題の脚を払うのは極く簡単で、農民ではない百姓をたったひとりでも連れてくればそれでよいのだが、もちろん普通の世界は論理学で動いてはいないから、ひとりではまずい。それでも、次々といろんな人々を紹介されると、いつの間にか、「百姓は農民である」という辞書的「常識」よりも、「百姓は農民ではない」という方がずっと本当らしく思えてくる。そこで、網野氏に批判された側は、当然、「<全ての>百姓は農民である、などとは一度もいったことはない。農民でない者も百姓に数えられていることなど、昔から分かっていたことだ」、と反論するわけである。それはそうだろうが、農民ではない様々な人々を紹介して鱗を落としてくれたのはやはり網野氏であって、だからいまさら論理学を持ち出すのはどうかと思う。思うのだが、しかし逆に網野氏の側からも、「<全ての>百姓は農民ではない、といってるのではない」、とやはり論理学に即した反反論をされると、素人は困ってしまう。ビーバップハイスクールを見て仰天した外国人に「みんなこうなんですか?」と質問されたようなもので、双方が「もちろんみんなというわけではありません」と答えるだけだと、「というと、どの位ですか?」とその先を聞きたくなるだろう。できればもう少し親切な答えをお願いしたいと思うのである。
 確かに「作る」ということにはケレン味がないので、単発のマンガや映画のように社会のある面に光を当てて面白く見せてくれる分には軽視しても全く問題ないのだけれど、全体像とか通史とかいうことになると、やはり素人ゆえに、面白みのない教室のことが少し気になる。例えばいつ頃から手形決済が使われるようになったかというような話は広々とした外の世界への広がりの中で面白く語ることができるが、いつ頃から牛が肩で鋤を曳くようになったのかというような話は泥田の中に足をとられるような話で面白くないのであろう。ダンス甲子園目指して頑張る高校生は面白く紹介できても東大を目指して頑張る受験生など紹介する気にもならないようなものである。素人的には、沢山作れるようになって、それで余所へまわせるようになって、という順序だと思うから、泥田の話や漁法の話などもちっとは聞きたいのだが、そういう関心が既にもう素人の古い考えなのでもあろう。
 どうせ思い付きで書いているので話はあちこちするが、しかし何故、歴史はそれでもなお政治なのだろうか。例えば限られた図表しかないのはやむをえないが、貴重なスペースを使って、最初から、天皇族や蘇我氏の家系、藤原氏の家系などなど、それぞれの時代の最高権力者の親族関係がこと細かく分かるようになっている。小泉某の孫の小泉の次に岸の孫の安倍なんてことは、現代「社会」の重要事項だとは到底思えないが、昔は血筋が重要だったのだろう。それにしても最高権力者の血縁関係が庶民の「社会」生活にとっても結構重要だったのかどうか、素人には見当がつかない。
 またもマンガと映画の話で恐縮であるが、例えば「三丁目の夕日」や「クレヨンしんちゃん〜オトナ帝国の逆襲」がある世代の人々をノスタルジーに強く誘うらしいのは、そこに、彼らの生きた歴史的「社会」が描かれているからであろう。しかし、ひろしとみさえが白黒テレビで懐かしく見るのは馬場やブルース・リーであって時の首相ではない。第一誰だったか私も知らない。まあそれも、「社会の歴史」を生きる庶民と「社会の歴史」を俯瞰する歴史家の視線の違いなのでもあろうけれども。
 いい換えれば、「社会」というのはつまり権力構造のことなのか、それとも権力というものはむしろ「社会」にとって「外」なるものだろうか。たとえ庶民はお上なんか知らないと思っていても、歴史家は結局前者のように考えているのかもしれない。「社会」という語は抽象的でわけが分からないところがあるが、とにかくそれは、人はどのように互いに関わり合いながら食い物を作りそして喰っているかというよりもむしろ、人はどのように人を支配しまた支配されているのかという人間関係のことをいうのでもあろう。どうもそのように考えているのではないかと思われる。で、食い物を作ることと人を支配することは、ある意味正反対のことだともいえるから、「百姓」が「農民ではない」その分だけ、「社会」が政治に傾くのかもしれないと、素人なりに納得してみたりするのであるが、もちろんそれは間違っているのかもしれない。(続)