F・ノート4 

 魚石の話が奇譚である根拠は、もちろん、石に封じられた魚が生きていることなどありえないという常識知にある。単なる<もの>は、外界との接触を断つためプラスチックに封じた方が、より長く「あり−続け」られる。一方、中国の特殊な魚と猿は別として、<生き-もの>は、石に封じられれば「生き−続け」られない。何故か。
 もちろん、魚や猿の場合は、第一に<いき>ができない=<いき>ていられないからである。つまりここで、遺伝子やウィルスなど有機体とか生命情報とかは排除されているのであって、「生きて−いる」ということは、ある「活動」を伴うものとみられている。その活動は、呼吸−燃焼であれ発酵であれ何であれ、生命体内部での、時間的な物質変化(反応)を基本的に含んでいる。このあたりもいい加減ないい方であるが。
 ともかく、その限り、生命体の内部で、活動によって消耗する元の物質と生成する後の物質、いい換えれば活動にとって必要な前者と不要な後者、例えば酸素と二酸化炭素、のバランスが変化する。物質組成、広くいえば状態が、活動にとって劣悪化するわけである。
 そこで、この活動が続くためには、劣悪化した状態を元の状態に戻すこと、更新が不可欠になる。例えば不要に生成した二酸化炭素を放出して消耗した酸素を取り入れる、というように。
 こうして、外的世界との絶えざる物質交換によって、持続的に更新する活動状態にあることが、ここでいう「生きている」ということである。
 なお、もちろんここでいう活動と物質交換は、高等な生きものでは単層的では決してなくて、例えばわれわれが酒を飲むとアルコールがどこかでどうとかして何かになり、それがさらにどうとかなって・・というような複雑な過程を経るわけであるが、そういった話は、ここでは関係ない。
 それにしても、何故そんな詰まらぬ話が「ファミリア」と関係あるのか、という疑問があろう。そのあたりのことは、多分次回あたりで。