1-6:旅と戦争

 さて、漱石が熊本に到着した4月13日から、数日遡ろう。
 繰り返すが、彼は、前任地松山から来たのであった。松山を出たのは10日である。松山港から船に乗り、先ず宇品へ渡った。
 宇品港は広島である。ただし、そこから汽車には乗れない。広島から東へは行けたが、西へ、馬関(下関)まで鉄道で行けるようになるのは、なお5年先のことである。
 神戸まで来ていた官営鉄道に接続して、山陽鉄道の神戸広島間が開通したのは、2年前の1894年6月10日である。韓国進出のために無理押しに戦争を決めた政府が、いよいよ大本営を開設し、朝鮮への派兵を開始した5日後のことである。
 広島までの鉄道が開通するやただちに、陸軍省の要望で、宇品港への路線建設が始まった。そして、開戦の号外が散る中を突貫工事が続けられ、8月20日には早くも広島宇品間に鉄道が通される。
 そして9月15日には、天皇が戦争指揮のために出向いて、広島が大本営となった。いわば戦時の臨時首都である。全国各地の部隊や軍事物資は、鉄道網を使って、本州の鉄道西端である広島に集結し、宇品港から、次々と大陸に運ばれて行った。また大陸からの捕虜が、松山へ運ばれることもあった。
 漱石が宇品に渡った96年4月には、戦勝と三国干渉の興奮からちょうど1年たっていたが、しかし、講和条約が締結された下関までは、まだ鉄道では行けない。ということで、漱石は宇品から再び船に乗り、海上を門司まで行った。
 門司からは九州鉄道の汽車である。熊本まで7時間以上かかった汽車の車窓から漱石が見たのは、まだ自然の多い風景だったが、ちょうど数日前に、筑豊炭田を背負った八幡に、官立製鉄所を建設することが決まったばかりであった。近代戦は、「鉄」の消耗戦である。また、国内でも大陸でも、鉄道レール網を敷くことが支配網を敷くことである。こうして、当時鉄の9割を輸入していた「日本帝国」がどうしても必要としたのが、巨大な製鉄所だった。九州鉄道もまた、この一大国家事業に、石炭や鉄鋼の輸送面で加わることになるだろう。
 ・・・・・松山−宇品−門司−熊本という、漱石夏目金之助の転任の旅の背後で、血生臭い歴史が大きく動いていた。