1-5:漱石の伝説

 ちょっと横道に。
 漱石が熊本を「森の都」と呼んだ、名付けた、という記述は少なくない。熊本市自身も、「熊本市は、文豪夏目漱石から「森の都」と謳われ・・」、と書いている。
 だが、ちょっと気になることがある。
 おそらく漱石が熊本に第一歩を記してから100年目を記念して「96’くまもと漱石博」というイベントが開かれ、彼が降り立った上熊本駅(当時は池田駅)の駅前広場に、若き日の漱石像が設置されたらしいのだが、それを紹介する市のサイトには、「(漱石は)駅から人力車で京町の坂を上り新坂を下りる時に、熊本の樹木の美しさに感嘆し、「熊本は森の都だ」と言ったと伝えられています」、とある。伝聞表現なのである。
 当日の状況については、木村隆之氏が、ここでもっと詳しく語っておられる漱石が5番目に住んだ内坪井旧居が漱石記念館になっており、95年に当時の館長木村氏がされた講演であるが、ただし要旨紹介文なので、言葉通りではないと思われる)。「漱石の手紙と当時の時刻表によれば、午後二時過ぎに到着したようです。宇品から門司に向かう船中、知り合った俳人、水落露石と武富瓦全と久留米まで出迎えた親友の菅虎雄の四人で駅に降り立ちました」。ところが、氏もまた、問題の箇所については伝聞である。「駅から人力車で京町の坂を上り、新坂を下る時に熊本の樹木の多さに感嘆し、「熊本は森の都だなぁ」と言ったと伝えられています。」
 この伝聞の根拠を知りたい。漱石は、本当にそういったのだろうか。
 松山を発った漱石が、1896(明治29)年の4月13日に熊本に着いたことは間違いない。「小生去る十日発十三日午後当地に着致候」(横地石太郎宛漱石書簡)
 そして、
 「・・・人力車を雇って京町の坂を上った。彼の眼下には樹木の鬱蒼と茂った城下町があった。「森の都」というのが彼の第一印象であった。」江藤淳漱石とその時代第一部』)
 「立田山からずっと東方阿蘇の山なみにかけて縹渺とした大きな背景に視線を転じつつ坂を下った時、思わず漱石の口唇から「森の都だな」という嘆声が発せられたであろう。」。(山崎貞士『新熊本文学散歩』)
 いずれも、「漱石が言った」という書き方ではない。
 というわけで、調べるうちに、杉山武子氏の「漱石は見たか―熊本時代の漱石ハンセン病―」(『海』 第57号、2003年)という論文に行き当たった。(表題通りの興味深い内容なので、興味ある方はこちらをどうぞ。)
 その中に、こういう部分がある。
 「熊本を去って七年後の明治四十一年、すでに作家としの地位を確実なものにしていた夏目漱石は、九州日日新聞の記者のインタビューに答えて、熊本時代の印象をいろいろ語っている。その明治四十一年二月九日付『九州日日新聞』の記事から、いくつか以下に引用したい。
  「汽車で上熊本の停車場に着て下りて見ると、先づ第一に驚いたのは停車場前の道巾の広い事でした。然して彼の広い坂を腕車で登り尽して京町を突抜けて坪井に下りやうといふ新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下して又驚いた。」
  「市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る、それに薄紫色の山が遠くから見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ廻って居るといふ絶景、実に美観だとおもった。」
 漱石が熊本を「森の都だな」と言ったという伝説は、このあたりから出たものであろうか。しかし真相は定かではない。」
 ・・・なるほど。というわけで、実際に口に出して言ったのかどうかは「定かではない」らしいが、だがまあ、この新聞記事からすれば、言ったようなものである。伝説は伝説でそっとしておくことにして、引き返す。
 付記)ただし、「三四郎」には、熊本出身の主人公が、「熊本ですか。熊本にはぼくの従弟もいたが、ずいぶんひどい所だそうですね」と聞かれ、「野蛮な所です」と答えるシーンがある。「坊ちゃん」同様これも小説のことではあるが、漱石自身も、イギリス留学を終えるに際して、熊本には戻りたくないといっている。結婚後の心労の記憶もあったろうが、やはり江戸っ子漱石には、生涯「田舎」むしろ「田舎者」になじめない気持があったのであろう。差別といってはいい過ぎにしても、その点では、松山も熊本も変わりはない。