1897年-16:学士様

monduhr2007-04-03

 書いたと思うが、漱石は松山中学で、月給80円。校長が60円だから、破格の初任給であった。
 しかし、1918(大正9)年の大学令までは、「学士」と呼ばれるのは帝国大学の卒業生に限られており、しかも帝大はまだ他にはなかった。帝大出の学士様が松山まで赴任してくれるとあれば、校長より高い初任給でも驚くことはなかったのかもしれない。
 時代が少し前だが、極端な例をあげよう。琵琶湖疏水といえば、第一期工事だけで国の年間全土木工事費に匹敵する費用をかけて、東京遷都後の京都を文字通り甦らせた巨大事業である。ところが、その一大難工事に当たって、設計施行の全てをまかされたのは、帝大工学部の前身である東京工部大学校を卒業したばかりの田邊朔郎であった。否、卒業したばかりどころか、彼の卒論「琵琶湖疎水工事計画」が全事業の出発点となったのである。それは極端な話としても、とにかく、この時代までの「学士」は、超のつくエリートだった。
 ところが、である。
 その学士様になること間違いない間貫一、「末は博士か大臣か」の彼が、今風にいえば超玉の輿である筈の婚約を、反古にされたのである。
 今はもう、貫一お宮といっても何のことか分からない人も多いだろうが、少なくとも、熱海の海岸で銅像を見たことがある人は、学帽マントの旧制高校スタイルをした貫一が、恋人の宮を蹴倒す有名なシーンを知っているだろう。おそらく彼にとって、宮が他の男と結婚することは、単なる恋愛上の問題ではなく、超エリートの自尊心に関わる問題だったのでもあろう。
 しかし、何故宮は、貫一を去って、別の男のもとにゆくのか。