1897年-15:弊衣破帽

 ところが、さらに、第一から第五の高等中学校は、1894年の高等学校令で、3年制の高等学校に改組される。いわゆる「旧制高校ナンバースクールである。(前述の通り、漱石が五高に赴任したのが96年。なお、書き忘れたが、官立高等中学校は2年制であった。金之助の場合、17才で大学予備門の予科に入学し、その後身である第一高等中学校を23才で卒業しているから、合計6年も在籍した計算になるが、彼も本科は21才から23才までの2年間である。)
 「金色夜叉」の古さは文体だけではない、という話をしようとして、細かい横道に入り込んでしまったが、問題の年、97(明治30)年1月から連載された小説の中で、間貫一が「高等中学校」の学生だというのは、そういうわけで、つまり旧制第一高等学校の学生だったと読んでおけばよい。(正確にいうと小説の現在は、大学予備門が1886年に第一高等中学校となってから94年に(旧制)一高になるまでの間、ということになる。)
 旧制高校といっても今は昔のことになってしまったが、白線入りの学帽学ランに腰手拭いマントを翻し高下駄で寮歌を放歌する弊衣破帽のバンカラ学生、というようなイメージは、映画か何かで見たことがあるのではないだろうか。
 もちろん、高歌放吟も弊衣破帽も、超エリートだからこそである。旧制高校ナンバースクール帝国大学に直結しており、しかもこの時代、帝大はただひとつだけだった。「篤学」つまり真面目な勉強家とされている貫一は、間違いなく帝国大学に進んで、超エリートの「学士様」になることが決まっていたのである。
 「学士様ならお嫁にやろか。末は博士か大臣か」。