1897年-19:資産と美貌

 小説自体が問題ではないので、並べることにする。
 富山唯継は、銀行の創始者で市会議員という「下谷区に聞ゆる資産家」を父にもち、その家督を継ぐ者である。
 一方、間貫一は没落士族の遺児で、父に恩のある鴫沢に引き取られ、彼のおかげで、やがて学士として世に出る筈である。
 その鴫沢は、八幡製鉄所の所轄省でもある農商務省の官吏であったが、いまは地所や家作でそれなりに豊かに暮らしている。恩人の息子は勉強もでき真面目で性格なので、いずれ娘である宮の婿にと思うようになっている。
 だが、富山は、鴫沢のことを耳にして、「はあ、知れたもんだね」と評価する。また宮は、貫一に好意をもちながらも、自分の美しさを知るゆえに、僅かな資産と「類多き学士風情」では物足りなく、もっとすごい「玉の輿」が迎に来るのではと心が揺れる。
 そういうわけで、図式的にいえば、士族官吏とそして学士が、もはや「知れたもの」となる一方で、資産美貌がいまや「玉」となっている。
 思うに、この配置ではからずも紅葉は、時代の変化を写し取っているといえよう。上からの近代化、上からの資本主義は、日清戦争後のこの時代、ようやく足を地につけつつあり、「上」つまり官吏から「資本主義」つまり資産家へと、時代の主役が交代しようとしている。「学士様」が「学士風情」となるのは、そのことの表れであった。
 それでも『金色夜叉』は、文体だけでなく、時代を写し取るその視線が古いといわれる。