1897年-18:帝国大学

 「類多き学士風情」・・・。なるほど帝国大学は、毎年「学士」を輩出する。例えば、連載開始のこの年1897(明治30)年、帝大卒業生は280人であった。(ちなみに、卒業後の最多は大学院進学など研究進学関係で合わせて73人、次が官吏の69人で、確かに「末は博士か大臣か」ではある。)東大だけで毎年3000人が卒業する現在とは比較にならないが、毎年280人でも、「類多い」といえなくないかもしれない。
 その上、小説の連載と時を同じくして、帝大が増えてゆこうとしていた。
 連載開始のこの年、ここでもまた日清戦争の賠償金がものをいうのだが、それをもとに第二の帝国大学が京都に作られる。ただし、正確にいうと、この年生まれの三木清が後に入学する文学部(文科大学)などはなお先で、この年に開設されたのは理工科大学だけである。田邊逸郎は例外で、八幡製鉄所でもそうだが、多くの分野で技師もまたお雇い外国人頼りだという現状が背景となっている。
 いま少しだけ横道。われわれは先に、東北の「杜の都」と九州の「森の都」を対比的に取り上げた。第二師団と第六師団、二高と五高。帝大についても、京都の次は東北と九州だという動きが興り、途中経緯は省略するが、最終的に古河財閥からの資金によって、両帝国大学の設置が決まる(ただし九州は、「森の都」ではなく福岡になる)。何故古河がカネを出したのか。いまは触れないが、古河の名は覚えておいて頂きたい。
 話を戻す。持って回ったいい方をしてしまったが、もちろん、宮が貫一から離れるのは、学士の数の問題ではない。貫一が「学士風情」といわれるのは、学士風情とは比較にならない玉の輿男が現れたからである。
 では、その富山唯継とは、どういう人物か。