1897年-20:実業家

 もう一本横道に入って、『金色夜叉』の10年前と10年後を見てみよう。
 自意識が強く、学歴も教養もありながら、否むしろあるが故に、自尊心が邪魔をして、世俗世間と折り合いをつけることができずに、その結果、心理的な自立希求と生活面での非自立との間で悩む青年。そういうキャラクターが、<近代的自意識>の具体的な姿として描かれる一方、往々にして、そのキャラクターを浮かび上がらせるために、自尊心の強い青年から見れば俗物的人物ではあるが、裏返していえば世俗的な能力もあり世知にもたけ、新しい世の中とうまく折り合って着実に生活を前へ進めてゆくという、今風にいえば経済的にも社会的にも<勝ち組>に属する人物が、対比的に配置される。
 例えば、10年前の『浮雲』である。
 紅葉の硯友社は敢えて擬古の道を選んだのだが、ご承知のように二葉亭四迷は、「この頃はDeathといふことが気になつて寝ても寤めても忘られ申さず候」という状態の中、『浮雲』を口語で書く。
 その主人公内海文三は、高等教育を受けながら失業者で、そのため恋人にも愛想を尽かされているのだが、一方、友人の本田昇は、仕事も着実にこなし、ヒロインにももてる。この2人を実生活の面で分けているのは、「官吏」をしくじった者と官吏として出世する者の違いである。
 一方、『金色夜叉』の10年後に、漱石は『それから』を書く。
 主人公代助もまた、教養と自意識は十分あるが、恋はしても仕事はしない寄食者であるが、一方保護者である兄は、「学校を卒業してすぐ、父の関係してゐる会社へ出たので、今では其所で重要な地位を占める様になつた」実業家として、実世間で着実にその実をあげている。
 友人平岡が代助に依頼する。「何うだらう、君の兄さんの会社の方に口はあるまいか」「うん、頼んで見様、二三日内に家へ行く用があるから。然し何うかな」「もし、実業の方が駄目なら、どつか新聞へでも這入らうかと思ふ」「夫も好いだらう」。しかし、代助自身は、「実業の方」に進む気がない。
 文三と代助の対比はよくいわれることなので、いささか強引にもうひとつの対比も許してもらうことにして、『金色夜叉』を挟んで10年前と10年後を並べてみると、実生活での成功者は、『浮雲』の官吏から『それから』の実業家へと動いている。地位からカネへ。そしてそのカネは、「実業」で作られるようになっている。