ハーフ&ハーフ(1)

 ブログの原義とは異なるのだろうが、いまブログは、いってみれば公開日記のようなものに見られることが少なくない。どうもまだなじめないのは、私が時代おくれだからだろう。
 例えば、古くて恐縮だが、ある時代の日記を読み比べたとして、「一二月八日」の欄に、「閃光身を貫く。撃ちてし已まむ。」とかいう類の記述が多い中、ある人がただ、「襟巻きをして烟草を購いに出、1銭玉を拾ふ。」などと、しょうもないことだけしか書いていなかったとすると、その場合には、言及がないという事実が<読まれて>しまう。その非社会性を批判されるか反時代性を称賛されるか、いずれにしても。
 もちろん、それは高名な作家などの場合であって、吹けば飛ぶようなブログなどでは、そんな心配はするも愚かなのだが、それでも、こう腹立たしいことが世に多いと、しょうもないことだけしか書かないことに、自分として多少気が引けてしまい、つい面倒になる。
 と、いい訳した上で、恐縮ながら、しょうもないことを少し書こうと思っているのであるが。ま、どうせだから、いつものことながら、書き方も、しょうもないだらだら書きをすることにしよう。「ハーフ&ハーフ」てのは、さしあたりの題で他意はない。

 かつて、あるスポーツのクラブに所属していたとき、近くの大学との間で、春と秋に定期対抗戦というのをやっていた。といっても、練習試合にちょっと緊張感をもたそうという程度の催しで、交替で当番にあたるというだけのものに過ぎなかったのだが、しかし、折角だからということで、ある年、小さいながらカップを買って来た。つまり、<格好をつけ>ようとしたのである。ところが、優勝者が決まって、さてカップ授与ということになったとき、はたと困った。「授与者」がいなかったからである。<格好>をつけるためには<場>を越えた儀礼的存在がいる、ということにあらかじめ気付かなかったのである。
 そんなわけで、政治家などエライ人は、そういう仕事もしなければいけないのだが、多分あれも結構大変にちがいない。「弱ったな。「本部席に御臨席を賜り・・」といわれても、議会の会期中で、それどころじゃないからねえ・・・」てなことで、部課長や秘書などが代理で行ったりするのだが、代理は所詮代理である。
 まあ、その点だけからいうと、というあくまで限定付きだが、<場>の圏外にいながら超エライ人が儀礼を担当してくれれば、大変便利だということになるのだが、問題は、そのエラさを何によって<場>に認めさせるかである。例えば、ときどき散歩の途中でにこにこしながら大学のグランドをのぞいたりしているご老人が、実は昔オリンピックに出場しその種目で優勝した、あの山田さんらしいぞということになったりすると、しめたものである。お願いして、来年からは「山田杯争奪対抗戦」にさせてもらえば、文句なしの栄光の記憶がエラさを納得させてくれるので、表彰式の<場>は大変<格好>がつくにちがいない。
 話がおかしな方へいったので、ここで区切る。