ホントのようなウソのような(2)うしろ続

 ということで、暗い(くろい)夜が後退してゆき、やうやう「しろく」なりゆくと、次第に、茫洋として分かち得ない「かはたれ(彼は誰)」から、此は何彼は誰と「し(知)って」「しる(記)す」ことができるようになってゆくという話でした。そして、そのようにして此彼の徴が「分かる」ようになるというのは、彼や此が輪郭で区切られ見「分けられる」ようになるということを意味します。
 こうして、輪郭で分けられる、というところから、次には「しろ(代)」の話になります、というとこじつけと思われるでしょうが。
 「しろ(白)」と「しろ(代)」は、辞書的には別語扱いですが、もちろん、無関係な別語ではありません。といっても、「ガン(銃)」と「ガン(眼)」はどちらも「狙う」ものだから同じだ、などというような馬鹿なウソ話ではありません。古の和語としては、ただ「しろ」があるのみで、「白」や「代」という漢字の方が、後からの当て字なのですから。
 さて、苗代とか飲み代とかの「しろ(代)」とは、どういう意味なのでしょうか。
 ちなみに、辞書というのは、こういう場合、大抵何の役にも立ちません。例えば、「しろ【代】」という語を『大辞泉』でひくと、そのトップで、こういう説明がされています。
 1 代わりをするもの。代用。「霊(たま)―」(中略)
 ものすごく大きな『日本国語大辞典』でも、似たようなもので、
 1 かわりとなるもの。代用。
という説明から始まります。少なくとも普通の辞書は、多く使われる順に表面的な意味を<列記>することで、利用者の役に立とうという方針で作られていますので、これはこれでいいわけですが。
 しかし、「白い百合」と「飲み代」の「しろ」は、全く無関係なのでしょうか。「ガンと眼」とか、「クリスマス・トリー? そりやお前ぇ、耶蘇の祭りに立てるあれだよ、鳥居みてえなもんだよ。だからトリーってんだ」・・・というような、無関係なソラミミなのでしょうか。
 もしそうではないとすれば、なぜ古来人々は、「白い百合」にも「飲み代」にも「しろ」ということばを使ったのでしょうか。
 例えば、上記の辞書では、「しろ【代】」の第一義は「1 代わりをするもの。代用。」だと書かれていますが、その際、例語としてあげられるのが「霊代(たましろ)」です。つまり霊代とは、神霊の「代わりをするもの、代用」というわけですね。しかしちょっと異論があります。
 以前、かなり大がかりな地鎮祭というものに招待される機会があり、信仰心は全くありませんが、大変興味深く参列させてもらいました。私が当日見聞きしたところでは、祭儀は3つの部分に分かれていました。先ず、その場所に神霊を招来する儀式、次にメインとして、降臨した神霊にお願いをして土地の悪霊どもを鎮めて頂く儀式、それから、仕事を了えた神霊に感謝し慰労して、高天原だかとこだかへお帰り頂く儀式。で、そのメインの部分で神主が御幣を振るわけですが、その御幣は、いうならば神の「代わりをするもの」ともいえます。
 けれども、もともと例えば御幣といっても、神霊を招来するまでは、棒に紙切れを貼り付けだけの「物」にすぎなかったわけで、そこに神霊が降臨してはじめて、神の「代わり」になるわけです。メインの場面では、確かに神の「代わりをするもの、代用」ともいえますが、祭り全体を通した意味では、御幣は、神霊の「よりしろ(依り代・憑代)」であり、いうならば「そこに神が依り憑く」<そこ>というか、神霊が降りて依る座であり、いわば神のために用意され確保された「空間」であり「余地」だといえるでしょう。
 ちなみに「ふる(振る)」「ふるえる(震える)」「ふむ(踏む)」などは、神霊の身振りになりますが、四股を踏んだり弓弦を鳴らしたりするのも、土地や空間を震わすということで、聖化されるのは物ではなく、注連縄で区切られた「領域」だろうと思われます。
 ちょっと脱線し過ぎましたが。(続く)