ネバドロ(4)

 けれども、宮崎氏は、すぐに、反省というのはどうかと思いますが、考え直します。ネバドロ虫を操る故に差別される虫使いに思いを寄せ、後に、腐海の底にネバドロの粘膜テントを張って暮らす、聖なる「森の人」に繋がる一族として救済します。
 また、恐怖のネバドロ代表である大いなる粘菌の海も、最終的にはむしろ全てを包み込む大いなる神のような存在であることになります。
 それでも、例えば土鬼の皇弟のような怖ろしい敵はネバドロの姿で現れますし、聖なるネバドロである「森の人」も、風さわやかな世界には出ることがありません。
 私は「動く城」も見ていませんし、特に宮崎マニアというわけではありませんので、これ以上書くとボロがでるでしょう。いやもう既に出ているかもしれませんのでやめますが、ともかく、彼の作品を見た後には、風と空気と透明な水が、いつもさわやかな印象として残ります。前期の名作「コナン」は光と空と水の物語ですし、ナウシカ以後も、黒猫少女や飛行機乗り豚などが風を友として空を飛び、そして、宮崎の名を世界に知らしめた「もののけ姫」と「千と千尋」でも、ご承知のように、神や友好的な存在は透明な水や風に割り当てられます。そして一方、怖ろしい祟り神や風呂から現れる怪物などは、まさにネバドロそのものの姿形をしているのです。
 とはいえ、たとえもし、このような、空気や水のような透明媒体とネバドロ粘液性物体の対比的割り振りに、宮崎氏の特別の思い入れがあったとしても、それは氏が勝手に創り出したものではありません。むしろ氏は、おそらくかなり文化普遍的に無意識に用意されたこの対比的枠組みを、巧みに利用しているのだというべきでしょう。例えは、愛欲を含むネバドロの穢れが、禊ぎや洗礼によって聖化されたり、天国や浄土は清らかな風と光に満ちた透明の世界で、一方地獄はネバドロの血の海たぎる暗闇の世界であったりするように。
 さて、またつまらないことを書いたので、今夜は、山芋納豆ででも一杯やりますかな。