黄米

 全くもってどうでもよいことですが、毎日更新ということで、こんなことでもお許しください。
 先日、車でラジオを点けると、NHK第2放送で、講演か講義をしているらしい声が流れてきました。教室向けか大人向けか、こういう種類の番組には、目的地に着いて車を降りる時、続きが気になるような、結構面白いものもあります。ただし、全く勝手で僭越なことながら、そういう時は、片隅的な話題、訥々と語る話し手、という条件があてはまることが多いように思います。
 先日の講師は、途中たまたまラジオを点けてから到着するまで少し聞いただけですが、大きなテーマを話される声が明確かつ自信たっぷりで、もちろんNHKの教育番組か教養番組を担当されるのですから、その道では権威ある方なのでしょうが、聴衆の気持ちを強く惹き付ける、名講演だと思われました。
 テーマは、大昔の和辻とか梅棹とかいった諸氏のような、風土が文明の基本を作るという話でしたが、もちろん、全て直説法で堂々と話されていましたので、紹介ではなくご本人の説として聞きました。私の記憶は全くいい加減ですし、途中でいくつか挟まれた原語は全て脱落していますが、聞き覚えている部分では、大筋こんなようなことを話されていました。
 「ということで、ナイル川というのは、毎年氾濫するわけです。それによって、肥沃な土が運ばれて来るのですが、その土が黒いんですね。つまり、エジプトというのは、ナイル川沿岸に拡がる黒い土のところだけが豊かなんです。はっきりと黒くてですね、まわりにひろがる不毛の土地は赤いんですが、それと対照的な色をしています。そういうわけで、エジプト文明、ナイル文明では、黒が尊ばれました。黒が聖なる色であり、王権の色なんです」。
 なるほど、と私はラジオを聞いていました。氾濫地と砂漠、黒と赤、豊かさを生む肥沃な土地と涸れた貧しい土地・・・・という対比なんだな、と。
 やがて講義か講演か、話は古代中国に移ってゆきました。
 「それでは、四大文明のうち、中国はどうでしょうか。毎年、日本には、中国から風に乗って「黄砂」がやって来て、新聞に載ったりしますよね。文字通り黄色い土なのですが、それが流れ込んだ黄色い河が「黄河」で、そこに古代中国文明が発展します。黄河には黄砂が流れ込み、河底が上がって洪水を起こしますから、大規模灌漑が必要で、そこで巨大官僚国家ができます。それで、エジプトの黒とは違って、古代中国では、黄色が高貴な色、皇帝の色になるわけですね。」
 待てよ、エジプトでは、黒い土と赤い土に、聖と俗、豊と貧が振り分けられていた筈だが、黄砂は部分的に積もるのじゃないから、そこらじゅう黄色だらけだろうし、それに黄砂というのは、確か西の砂漠から流れて来るのじゃなかったかな。と、ちょっとハテナマークが点灯したのですが、講師は大河のごとく滔々と名調子で演じ続けます。
 「そこで、大地が黄色で、黄色が高貴な色であった中国では、伝説上の最初の統治者は「黄帝」と呼ばれます。また、米がまだ多く取れなかった頃には、黍、稗、粟などが作物の中心だったので、黍は「黄米」といわれたのです。」
 ちょっ、ちょっと。私は何も知らないですが、それはちょっとどうなんでしょうか。自信たっぷりに何でも黄土で説明してしまえば、ついほんとに聞こえてしまうのですが。
 黄色い大地と黄色い大河を支配する国家で黄色が高貴な色になり、黄色が皇帝の色になったとかいうのは、まあまあよいでしょう。後からちょっと調べてみると、五行思想で黄色は「土」で中央に位置するからだとか、豊かな穀物の穂の色や黄金色からだとか、単に黄と皇の発音が同じだからだとか、はっきりしないようですが、大地が黄色だから大地の支配者の色が黄色になったというのは、まあ、そうですかと聞いておくことにしましょう。じゃ「黄泉」はどうして黄色なんだとか、現代語ではどうして黄色がむしろ卑猥な色なんだとかは、無視しておくとして。
 しかし、黍が黄米と呼ばれたらしいことまで、黄色が高貴な色だったからだというのは、あんまりではないでしょうか・・・とラジオを聞きながら思ったのですが、だって黍は、実際の色が普通「黄色」じゃないですか。もっとも古代のそれは知りませんが。
 緑が普通のものをピーマンと呼んでいたところ、新たに赤いのが現れたので「赤ピーマン」と呼ぶ、というのが普通のネーミングでしょう。「黍」と「米」は元は同じ字だったのかもしれませんが、ともかく、はじめの主力穀物を「黍」とか「米」とか呼んで、後から現れた穀物に「白黍」または「白米」と名付けたというのならともかく、中国では大地が黄色で黄色は尊い色だから、尊い黍をわざわざ「黄米」と呼んだというのは、ちょっと無理があるのではないでしょうか。堂々と話されたので、思わずそうかなと思いかけはしましたが。
 まあ、全くどうでもよいことで、ラジオを聞きながら、ちょっとツッコミをいれただけのことです。もちろん、私の方が間違っているのかもしれませんけどね。いや、はじめに書いたように、その人にとって切実な片隅的事柄を訥々と語る話し手はつい信用するのですが、大テーマを自信たっぷりに大声で話される話し手には失礼ながら眉唾になるという、歪んだ耳をもった私の方が間違っているのでしょうけどね。