どうでもよいことながら

 こういう時は、ネットというのは便利で、物知りの方があちこちにおられます。
 で、ごく簡単にいえば、こういうことだそうです。
 吉凶占いの類と暦との関係は深いのですが、明治になって、従来の暦が棄てられ太陽暦が採用されることになった際、それまでの吉凶占いの類は、迷信として暦への記載を禁止されました。ところが、もともと六曜は、素人でも簡単に計算できるいい加減さゆえに天文暦学者からとるに足りないもの扱いされていたので、禁止リストにもあげられなかったのだそうです。もちろん現在も、大半の暦学者は六曜を否定しており、仏滅も当て字で仏教とは無関係。
 だが、何が幸い?になるか分かりません。いい加減でとるに足りない代物だからこそお目こぼしされた六曜は、以後、旧い吉凶暦に代わるものとして民間で用いられるようになっていったとのこと。しかも、爆発的に流行り出したのは戦後だそうですね。第一次産業離れで、私たちの日常生活が、季節も月明かりも関係ない無機的なものとなり、身近な暦から天文暦農事暦の意味が無用となると、「どうでもよい」単なる記号が、却って「どうでもよい」使われ方ができるものとして歓迎されるようになったということでしょうか。
 「いやあ、さすがに社長、先見の明のご決断、感服いたしました。それでは、御契約日は・・と、常に業界の先を行く社長の御決断にふさわしく、<先勝>の二月イッピといういうことでいかがしょうか」、「ご納車日は、やっぱり<大安>ということで、ええっと、来週13日の金曜日にさせて頂きます」、とか。もちろん一番多いのはあの業界で、「大安吉日新郎新婦偕老同穴共白髪、鶴は千年亀万年御両家弥栄芽出度いな」。
 もちろん、迷信なんてものは世の中にゴマンとあるわけですし、それはそれでいいのですが、不思議なのは、殆ど全ての手帳にアレがついているということです。そんなにみなさん、必須なんですかね。各社売り出し中の手帳には、中身も表紙も、デザインも色も、大きさも厚みも、紙質も綴じ方も、あれだけ多種多様なものがありながら、余計なものがないきれいな手帳が全くといってよい程ない。ということは、売れないのでしょうかね。そこが不思議。
 さすがに、キャラクターが描かれた子供やギャル向けの手帳はきれいですから、仏滅とかいう文字にで汚れた手帳を持つのは、一種成人の証なんでしょうか。
 底の見えない大不況の昨今に、全くもってどうでもよいことで恐縮です。こじつけながら、是非近い将来、「何が幸いになるか分からない」、といえるようになればいいのですが。