卵の側につく和平 

「和平」について、少しだけ補足しておいた方がよさそうです。
 オバマも受け継ぐアメリカ「中東和平」が原則とする「二国家共存」とは、イスラエル国家の安全保障を最大目的とするものであり、つまりはイスラエルの代弁案だ、というようなことを書きました。ということは、ユダヤ人を半島から追い出せということなのでしょうか。
 鞄をひったくられ、取り戻そうとする者に、「暴力はいかん、ストップ、ストップ」という「和平」。どんなトラブルでも、「はい、そこでストップ」というような「和平」は、奪ったり取ったり傷つけたりした者の望む「和平」です。
 突然庭先に乱暴一家が家を建てて住みつき、銃をぶっ放して居座ってしまう。抗議すると逆切れして手が付けられず、どこへ訴えてもお座なりのことをいうだけで、乱暴一家に対ししては何も対処してくれない。それを見てますます図に乗った乱暴一家は、次第に領地を拡げ、とうとう井戸まで取り込み塀でふさいでしまって、とてもこれでは生活できない。今日も、井戸へ行きたい子供が、水汲み用のバケツを塀に打ち付けながら、「水が飲みたいよ〜」と叫んでいると、いきなり出てきた乱暴一家が、バケツを取り上げシャベルで子供を殴りつけて大怪我させる。
 ところへ、地回りの顔役が現れて、「シャベルで殴るのはやりすぎだ、ストップ」、といい、乱暴一家には「あなた方、やめた方がいいですよ」といい、そして子供らには、「お前ら、いつまでもめてるんだ、いい加減手打ちにしろ」、という。
 いうならば、アメリカの、というか列強「国際社会」の「和平」案とは、このようなものではないでしょうか。まさに、「はい、ストップ」和平です。
 といえば、きっと顔役は、「そんなことはない」、というでしょう。「俺は、暴力で奪うことは認めない」、と。なるほど。では、乱暴一家にどう対処するのですか、と聞くと、曰く「暴力で奪ったバケツは返させる」。何をいってるのですか。
 そういえば、村上春樹氏は逡巡の末に、受賞を選んで演説したそうですね。「正しい壁と間違った卵があるなら、私は卵の側に立ちます」。確かに、辞退沈黙より受賞発言を選ぶというのも、ひとつの選択肢ではありましょう。だが、斉藤美奈子氏も今日書いています。「総論比喩なら誰だって卵の側に立つというだろう」、と。で、村上さんの場合は、どうすべきだと思われるのですか。「バケツは返さなければなりません」とでも。それとも。
 例のビン・ラディンが、「1917年以来うんぬん」といいました。ご承知のように、実は乱暴一家は、もともと顔役家が下人として徹底的に差別しながらこき使っていたのですが、次第に厄介になって来た、そこで顔役は、彼らに恩を売りつつ体よく追い出すために、「あそこへ家を建てろ」とけしかけた、それが1917年です。その後、顔役の仲間の組が一家皆殺しにしようとしたため、追い出す方も追い出される方もますます移住に拍車がかかり、乱暴一家の侵入居座りとなったわけです。
 「バケツの返還」による「和平」とは、いうならば、財布を丸ごとカツアゲした連中が、「帰りの電車賃だけ返してやらあ」と五百円玉を投げて寄越すようなものです。「卵の側に立つ」という総論比喩には、五百円玉返還での「和平」手打ちをいうのか、それともカツアゲそのものを問題にするのか、ということについて、何の言及もありません。「総論比喩なら誰もが卵の側につく」と、斉藤氏がいう通りです。
 だが、それでは、どうなのでしょうか。乱暴一家に対して、そもそもの侵入居座りを問題にし、半島から出て行け、というべきなのでしょうか。(続く)