能動的ディアスポラ

 (承前)乱暴金満一家イスラエルの戦略は、世界中から金を集め、最強の兵器を揃えて周りの土地を武力で占領し次々と「自領」に編入してゆくという無茶なものです。自国安全を理由に周辺を領土化してゆく手口はかつての大日本帝国に似ていますが、わが帝国は国際連盟で孤立脱退して自滅への道を進む他なかったのに対して、イスラエルは国連での非難囂々も親分アメリカの後ろ盾で無視してきました。こうして、占領編入を既に何層にも重ねてきたことで、いまや新しい占領地を争点にすることが古層の占領の既成事実化になるという仕組みを作り上げています。これまで理不尽にも事ある毎に乱暴一家を庇ってきた顔役アメリカのいう「和平」なるものは、まさにその仕組みに乗って、昨日取り上げたバケツを返すという「譲歩」と引き替えに積年の強奪を全て認めさせようという、一方的な手打ちです。
 しかしもちろん、人々は忘れてはいません。問題は、イスラエルが「占領した土地を」返還すべきだということではなく、もともとイスラエルの建国そのものが「占領」に始まるのですから、本来イスラエルは「イスラエルを」返還して、消滅しなければなりません。
 「正しい壁と誤った卵」、というのが村上氏の比喩でした。もちろん彼は、壁が「正しい」といったのではなく「たとえ正しくとも」といったのだ、というでしょう。その通り。つまり彼もまた、その比喩によって壁の「正誤」を棚上げすることで、その「存在」を既成事実化したのです。彼がイメージしたように、卵が壁にぶつかるのではありません。壁そのものが、卵をつぶして築かれたのであり、つまり壁には、「たとえ正しくとも」という仮定法そのものが成立しえないのです。
 だが、(と、前回の終わりに書きました)、それでは、どうなのでしょうか。占領地の返還ではなく、イスラエルという国自体を返還せよということは、ユダヤ人は半島から出てゆくべきだということなのでしょうか。彼らは再び、<哀れにも>土地なき彷徨の民となるべきなのでしょうか。否。
 難しい話をすると長くなるので、ここは、簡単に書いておきます。イスラエルの「国」は消滅すべきであり、ユダヤの「民」の排他的占拠は以前に戻すべきです。しかし、ユダヤ人であろうと誰であろうと、人は、どこに住めとか住むなとか強制されるべきではありません。「土地なき民」「国なき民」が蔑称であったのは、その裏返しとしてシオニズムが栄光への道と見えたのは、「人」のアイデンティティ国民国家にこそあった19世紀の遺制でしかありません。人は人であるためにはいずれかの「国」の「民」でなければならなかった時代は終わりつつあります。もちろんその終わり方にも光と影がありますが、人がどこで生まれどこで育ち何語を話し何の神を信じどんな文化に親しみどこに住みどこに税金を払うかを、「国」という壁によって強制することは、もはやできなくなりつつあります。ここかしこに、大きな小さな、文化の宗教の言葉の・・・偏差が生まれまた消え、それらが互いに共振し共鳴しつつ動いてゆく。人は、望めばそのうねりのひとつに深く沈潜してもよいし望めばいくつもの波頭を軽く滑って行ってもよい。イスラエルの「国」と「民(国民)」が、あらゆる国と国民に先駆けて自ら壁を消滅させ、「能動的ディアスポラ(離散)」の栄光を勝ち取るという道を選ぶことを、私はひそかに応援しているのですが。(続くかも)