村上春樹氏と原理主義

 イノブータン王国の与太話などして終わったつもりだったのですが、新聞に村上春樹氏の大きな写真とコメントが出ていましたので、あとひとことだけ。
 イスラエルからの申し出を辞退するか、それとも受賞式で批判的(のつもりの)発言をするか。どんな行動にも、すべき理由とすべきでない理由が成りたちえますし、だから支持や賞賛もありえ、逆にまた無視や批判もありえます。だが、行動はひとつですから、いずれかを選ばなければならず、従って、人がある行動をすることは、必ず何らかの批判意見を全面的に引き受けることでもあります。作家である村上氏にとって、その程度のことは、今更いう程のことではないでしょう。私は例えば、発言を封じられて戦前の獄中に暮らすことをせず奴隷の言葉で抵抗する行動を、一概にダメとは思いませんし、村上氏の行動についても、大方の人々同様辞退すべきだったと思いますが、けれども受賞して批判(のつもりの)発言をする方を選ぶという氏の判断を、全面的にダメなものだったとも思いません。少なくとも、そう思っていました。けれども、氏には最低限、自らへの批判を引き受けつつ敢えて選んだ行動なのだという、真に矜持ある発言がほしかったのですが、新聞記事で見る限り、見苦しい弁明や言い訳けが目立ったようです。
 例えば、今回の賞は、イスラエルという「国」の賞ではなかったから、と氏は言い訳けしています。詳しくは知りませんが、確かに国が与える勲章の類ではなく、主催と授賞者は別に存在したのでしょう。けれども、氏自身がいうように、授賞式には大統領が臨席しています。自らの行動を擁護するために、「国」の賞ではないというような<形式>から、出来事全体の<意味>を説明するとは、いやしくも作家である方の弁明とは思えません。ヒトラーが臨席していても、主催はオリンピック委員会なのだから、あれを「ナチス・オリンピック」だったというのは間違いだ、とでも。
 他にもつっこみたい所はありますが、あと一つだけ。記事の最後にあった、村上氏のことばについてです。辞退するのが正しかった、という批判に反撥して、村上氏はこう締めくくっていました。「正しさ原理主義は怖い」と。
 他ならぬ、イスラエルパレスチナが問題になっているこの文脈で、「原理主義は怖い」という発言が一体どのような<意味>をもつのか、ということについて、作家村上氏が無知だった筈はありません。氏は、その<意味>を十二分に分かった上で、「原理主義は怖い」と発言したのです。村上氏の、「悪い卵でも」といういい方に、私は悪い予感をもっていましたが、ひとまずは保留しておきました。けれども、その悪い予感は当たったようです。
 ご承知のように、原理主義ファンダメンタリズムという語は、最近作られた「非難侮蔑」語であって、例えば、ブッシュもそうだといわれた排他的で攻撃的なキリスト教保守派なども、「キリスト教原理主義」といわれます。けれども、中東情勢が問題となっている文脈で「原理主義」という語が用いられる時には、間違いなく、いわゆる「イスラム原理主義」を指し、その名で、イスラエルに対して批判的な姿勢を鮮明にする人々が「非難侮蔑」されます。そしてそれは、往々にして、ナチス統治下のフランスでなら「レジスタンス」といわれたと同じ行為を「テロ」という名で「非難侮蔑」することと、セットになっています。
 「原理主義は怖い」という村上氏の言葉は、本人の意図がどうであれ、「イスラム原理主義」を、つまりはイスラエルに対する批判が鮮明な立場の人々を「非難侮蔑」するものとして機能しています。作家である村上氏は、言葉というものがもつ、このような<意味>の拡がりについて、的確に分かった上で、「原理主義は怖い」「正しくない」、といったのです。つまり村上春樹という作家は、イスラエルの側に、より正確にいえば、イスラエルの側に立つアメリカの側に立っているのであって、そうでなければ、この文脈で、わざわざ、「原理主義は怖い」ということばを使う筈がありません。
 村上氏にとって、出席受賞は、逡巡の末の苦悩の選択でも何でもなくて、予定の確信的行為だったのでしょう。基本的には(イスラエルの側に立つ)アメリカの側に立って、ただ今回の空爆についてだけやりすぎを注意し、でも「原理主義は怖い」ですからねえという。結局、そういうことだったのでしょう。