異質性と多様性(5)棲み分けの平和

 イギリス人ロビンソンは、島では徹底的にマイナーである。
 第一のロビンソンは殺され、島にイギリス人はいなくなった。第二のロビンソンもまた、豚脂に辟易としている間はかろうじてなお不幸なイギリス人であるが、それを克服した時には、もはやイギリス人ではない。殺戮と同化は等しい。共に、マイナーなイギリス人は抹殺される。
 それに対して、第三のロビンソンは、いつまでも幸せなイギリス人でありうる。もちろん孤島で一人という、これ以上ないマイナーで不幸な存在であるのだが、しかしアイデンティティを失うことなく、気楽にイギリス人として暮らしてゆける。いうまでもなく、このような気楽さとは、海岸と森の棲み分けのおかげで、メジャーな島民とマイナーなイギリス人とが、互いに関わりなくコミュニケーションなく無視無関心でいることができることから来ている。
 こうして、殺戮であれ同化であれ、<差異>を埋めることで、「虐殺の島」「吸血鬼の島」に平和がもたらされる。そうでなければ、第三に、<差異>が問題として発動しない無視無関心が、かろうじて平和を維持する。
 さて、もちろん、以上はお話でしかない。例えばロビンソンが棄てた空き缶を島の子供が拾ったというような、ごく小さい偶然のできごとひとつでも、堤防を崩す蟻の穴の役割を果たすであろう。
 では、そうなったとき、というより、そうならない訳はないのであるが、<差異>には、別様の処理がありうるのだろうか。
 いやこれは、大上段の難問すぎるのであるが。