異質性と多様性(10)神の子と猿ども

 繰り返すが、第三のロビンソンは、付き合い以前の問題である。マサティエラ島に流れ着いたのが異島の「人間」なら殺したり介抱したりもしようが、何しろこれは生っ白い変な「猿」で食糧にも家畜にもなりそうになく、一匹だけだから放置しても害はなかろう。というわけで、島民たちは、見物に飽きるとあとは無視した。一方、ロビンソンはロビンソンで、こんな「猿みたいな連中」は自分と同類の「人間」ではなく、ここは「無人島」だ、と思うことにした。つまり、殺戮も吸血も起こらなかったについては、互いに相手を「猿」だと差別したことが幸いしたのである。
 この平衡状態が成立した要因のひとつには、ロビンソンが極端なマイノリティであることに絶望しなかったこともあったかもしれない。彼は、自分は猿どもとは違う文明ブリテン人であること、そして文明ブリテン国はいずれ自分を救出してくれること、を信じていた。こうしてロビンソンは、圧倒的なマジョリティからの差別を、イギリス国の救済幻想で埋め、平衡状態を維持できたとも考えられる。
 となると、もしかするとこれは、よくある話かもしれない。変わり者の乞食を差別する人々と、愚かで哀れな連中を差別する神の子。
 ただし、もちろんこれも、変わり者の乞食が、自分が神の子であっていずれ救済されると信じるだけにとどまらず、説教や布教などという実に余計な使命などを思いついたり、人々が無害な乞食を差別的に無視し放置するだけにとどまらず、町の浄化とか厚生などという余計な政策をとろうとしたりしなければ、の話である。実際には、何やかや、やっかいなことが起こって、人々は乞食を殺そうとし、神の子は人々を吸血しようとするわけである。