異質性と多様性(9)全裸に靴

 テレビに見たいものがない、といわれて久しい。地デジ化は「終わりの始まり」どころか「終わりの終わり」だという人もいる。ま、他人のことはおくとして、その時も見るものがなく、ピピピやっていた。と、全裸の女性が笑顔で野原に駆けだしたと思うと、小屋の中の男も全裸で飛び出し、戯れながら追いかけっこ。そのうちご想像のシーンとなり、その後小屋へ戻って、今度はアップで、たっぷり全裸を見せる。どうやらチャタレー夫人と森番らしいと分かったところで(違っていたかもしれないが)チャンネルを変えたのだが、とにかくずっと全裸である。
 個人的感想をいってよいなら、美しいというより不様に醜い裸だなあと思ったが、まあ、大方の観客は、特に西洋人たちは、そんな裸を美しいともエロティックだとも感じるのだろうから、私の感覚の方が歪んでもいるのであろう。
 だが、全く個人的理由だけとはいえないのではないだろうか。例えば、森番の中年男はモジャモジャ胸毛だったが、西洋人にはセクシャルなアピールになるのだろうが、多分日本人には不潔さを感じる人が少なくなかろう。女性の裸体の方にも、具体的に書くのは遠慮するが、同様なことがある。だが、それだけではない。
 大体、何故そんなに全裸を見せたのか。昔裁判にまでなったが、これはいわゆる「芸術」なのであって、全裸にこそ意味がある。つまりそのシーンは、何より、チャタレー夫人が、抑圧されていた心身全てを自然の中に解き放った美しさ・・・を、観る者に感じさせようという大事なシーンなのだ、ということなのだろう。ところが、である。「全てを自然に解放し切った」アダムとイヴは、何と、靴だけは履いたままなのである。靴を脱いでいれば美しさとエロスを感じたかというと、多分そんなことはないだろう。だが、ともかく、若くない男女の体型とか何とかいう以前に、全裸で靴だけ履いているというその姿が、「不様に醜い」裸だなあ、と私が感じた理由のひとつになっていたのではなかろうか。
 若い二人が互いに心身を解放するシーンを控えめに撮ろうとする時、例えば砂浜で靴だけ脱いで駆け出させるなどというのは、余りにも常套的な絵であろうが、靴を脱ぐことが常套的な解放シーンとなる文化と、あからさまに「全てを解放」したことを撮っている全裸シーンで、でも靴だけは履いていることを、監督も観客も見過ごす文化。やはり、そこには、少なからぬ違いがある。
 で、何の話かというと、靴や裸の話ではなく、元に戻って、島の話なのだが。
 映画といえば、ケビンコスナー主演の「ウォーター何とか」とか、「少年コナン」といっても探偵ではなく宮崎駿の方とか、あ、こちらは映画ではないが、ともかく、水没した世界に島だけが点在している、という設定が時々ある。
 で、仮に、世界にたった二つ、いや三つ。マサティエラ島とブリテン島とニポン島と、それだけがあって、それぞれ、互いに異なる、固有の文化の中で暮らしているとしよう。
 先にみた通り、仮に固有文化大事の立場だけでいえば、例えば靴のブリテン人が裸足のニポン島に漂着したとき、ニポン人のなすべきことは決まっている。殺すか、靴を脱がせるか、どちらかである。つまり、抹消か、それとも同化か。
 だが、全くそれでお終いなのだろうか。ということで、問題は、固有性を残しながら、なお、平和に付き合うことができないのものか、ということになる。多分、単純でなく、やっかいなことになるだろう。