音のない盆踊り

 電車の座席などで各人がそれぞれ呟く時代などと書きましたが、確かにそれじゃ五月蠅いですね。そんなことになってほしくありません。聴く方はもうとっくに各人のヘッドフォン・イヤフォンなんですから、入力の方も、指より簡便で五月蠅くない・・・というと、イメージするだけで書けるように、って、そこまではまだなかなか行かないでしょうが。
 五月蠅いといえば、苦情があるので全員がイヤフォンを付けて、「無音で踊る盆踊り」をしたところがあるそうですね。今年は全員FM発信の同じ曲で踊ったらしいですが(そりゃそうでしょう)、でも来年は、各人別々の曲で踊るというのも考えているとのこと。旺盛な実験精神には脱帽しますが(^o^)、そうなるともう同じ広場でなくてもよいわけで。
 「はい、こんにちわ」。「あ、これはどうも、町内会長さん」。「今年も、盆踊りの方、ひとつよろしく」。「あ、もうそういう季節なんですね」。「今年は梅雨が長かったので、皆さんそうおっしゃいます」。「それとこの不況ですからね、例年のように盆のことまで頭がまわりませんわ」。「まったくですねえ」。「でもまあ、せめて盆踊りは、例年通りにぎやかに」。「そのことですが、今年は、ご自宅でそれぞれ踊って頂くことにしました」。「え、それぞれ自宅で? 会長さん、それはつまり、中止ということですか」。「いえいえ、盆踊り、やるんですよ。それぞれご自宅で大いに踊ってもらうんですわ」。「自宅でねえ」。「そうです。大々的にやるんですよ。だからひとつ、寄付の方も、いつものようにお願いしますよ」。「それは、ま、協力はさせてもらいますけど。じゃ、いつものようにお酒を1本」。「ありがとうございます。それではひとつ、今年もよろしく」。「あ、会長さん、肝心のお酒、お忘れですよ」。「いやいや、だから今年は各人ご自宅で、飲んで踊って頂いて」。・・・んなこと、あるわけありませんが(^o^)。
 AV機器というものが登場するまで、盆踊りというのは、当然、それぞれの町内、村落ごとに、自分たちで太鼓をうち三味線を弾き、歌も歌うものだったわけです。それぞれ、この日が出番の名手がいて。ですから当然、同じ音頭でも、村落ごとに歌やリズムのバージョンが違うし、踊りも違っていました。が、AV機器の登場とともに、盆踊りも全国一律化し、筑豊ではないのに「炭坑節」、首都でもないのに「東京音頭」。
 そこで、「これではいけない」と、多分なったのじゃないでしょうか。各「地方」に、行政や観光協会主導で、「何とか音頭」や「何とか節」「何とか踊り」の類が統一され、あるいは新たに創られ、町おこしイベントとして盛り立てられてゆきます。観光客を全国から呼び込めるように、日にちも盆からずらしたりして。で、確かにうまくいったところもあるわけです。
 いってみれば「地方分権」ですが、この行政主導の「地方」の踊りや音頭は、もともとの固有性をもっていた町内や村落の歌や踊りを潰してしまいます。
 そういえば、橋下知事らは、しきりに「地方分権」といっていますね。かつての「郵政民営化」同様、ひとつの熟語で争点を単純化したいらしいのですが、いわれている「地方」も、町内や村落ではありません。橋下知事が、府下の市町村に対して如何に支配的、強圧的であるかは、よく知られています。つまり彼のいう「地方」とは、「知事王国」であり、「地方分権」の主張とは、「国の権限を道州府県へ」、ありていにいえば、「国の権限を知事によこせ」、ということです。「県の権限も市町村へ」ということでは決してありません。
 もちろん、地方分権は大いに結構なことです。「県の権限を市町村へ」、「市町村の権限を各自治会へ」、いっそ「各自治会の権限を各家庭へ」。「いやあ、うちの町内会長さんは改革派ですね。盆踊りも分権でやるらしいですよ」。「うちなんか、もっと改革派ですわ。家族がとっくに「分権」になってますから。」