「原発継続」を選ぶ私たち

 一昨日の町長選挙で、原発推進派の候補者が圧勝した。 
●2011年9月25日 山口県上関町町長選挙 推進派の柏原重海氏が圧勝
 投票率87.55%の結果、原発推進派の現職が1,868票で、原発反対派の候補者に圧勝した。「推進派は原発計画にともなう交付金への期待や、公共工事が減少するなか地元建設業者など工事再開を望む地元経済団体の後押しを受けた」とのこと。当選した柏原氏は、「原発交付金以外に財源がない」、「町民の30年の苦しみを知ってほしい」、といったという。なお、人口の約半数が65歳以上の高齢者で、過疎化が進行中とのこと。

 事故後の知事選挙で、推進派の知事が連勝を続けている。
●2011年4月10日 佐賀県知事選 自公推薦で原発推進派の古川康氏が3選
 古川知事は、玄海町町長と共に、原発利権との強い結びつきを指摘されている。玄海町では、以前から町民の出稼ぎがとまらなかったが、原発誘致による原発マネーが流れ込み、それで「ようやく人並みの生活ができるようになった」、との声もある。(→ここ
●2011年4月10日。北海道知事選 自民推薦で原発推進派の高橋はるみ氏が3選
 原発利権を指摘される高橋はるみ知事は、8月17日、北電泊原発3号機の営業運転再開の容認を正式表明、首相も容認した。
●2011年6月5日 青森県知事選 自公推薦で原発推進派の三村申吾氏が3選
 民主党などが推薦した候補は原発反対の姿勢を明確に出さず、投票率は非常に低かった。「出稼ぎしねぐて良ぐなったのも原発さあっからだ。しょうがねがったんだ」、との声もある。

 少し古いが、こういう本音?発言がある。
●1983年1月26日 高木孝一敦賀市長(当時)「原発講演会」で発言
 「只今ご紹介頂きました敦賀市長、高木でございます。〜
 一昨年もちょうど4月でございましたが敦賀1号炉からコバルト60がその前の排出口のところのホンダワラに付着したというふうなことで、世界中が大騒ぎをいたした訳でございます。
 〜敦賀は日本全国の食用の昆布の7〜8割を作っておるんです。が、その昆布までですね、敦賀にある昆布なら、いうようなことで全く売れなくなってしまった。ちょうど4月でございますので、ワカメの最中であったのですが、ワカメも全く売れなかった。まあ、困ったことだ、嬉しいことだちゅう…。そこで私は、まあ魚屋さんでも、あるいは民宿でも100円損したと思うものは150円貰いなさいというのが、いわゆる私の趣旨であったんです。〜
 〜いまだに一昨年の事故で大きな損をしたとか、事故が起きて困ったとかいう人は全く一人もおりません。まあ言うなれば、率直に言うなれば、一年一回ぐらいは、あんなことがあればいいがなあ、そういうふうなのが敦賀の町の現状なんです。笑い話のようですが、もうそんなんでホクホクなんですよ。
 〜(原発ができると電源三法交付金が貰えるが)三法のカネは、三法のカネとして貰うけれども、その他にやはり地域の振興に対しての裏金をよこせ、協力金をよこせ、というのが、それぞれの地域である訳でございます。
 〜まあそんな訳で短大は建つわ、高校は出来るわ、50億円で運動公園は出来るわ〜といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の街づくりが出来るんじゃなかろうか、と、そういうことで私は皆さんに(原発を)お薦めしたい。これは(私は)信念を持っとる、信念!
 ……えー、その代わりに100年経って片輪が生まれてくるやら、50後に生まれた子供が全部片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階では(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか…。こいうふうに思っております。どうもありがとうございました。(会場、大拍手)(内橋克人原発への警鐘』講談社文庫より→ここ

 原発反対の先頭に立っていた県議が、推進派の町長となり、そして死んだ。ただし、上記が喜劇で下記が悲劇という単純な話ではないだろう。 
●2011年7月15日 岩本忠夫前福島県双葉町長 死去
 「7月15日午前5時。岩本忠夫・前福島県双葉町長は福島市の病院で、静かに息を引き取った。82歳。原発事故の避難生活で急速に衰え、入院後の40日間は会話もできなかった。毎日新聞8月25日日下部聡、袴田貴行署名記事より)
 岩本氏は、福島第一原発1号機の営業運転が開始された71年に社会党の県議に当選。「双葉地方原発反対同盟」委員長として、反原発の先頭に立った。74年には電源3法の国会審議に参考人招致され、「危険な原発を金で押しつける法案と解せざるを得ない」と述べた。
 だが、原発によって町は次第に変わってゆく。農閑期の冬には毎年出稼ぎに出なければならなかった農民も、原発の下請け作業員として働くようになると、年収も増え、生活が一変する。何より「出稼ぎに行かずに済むようになって、本当にうれしかった」。こうして町民の意識が変わってゆくなか、岩本氏は何度も落選。引退する。
 ところが85年、人望やクリーンな印象から、氏は町長選に担ぎ出され大差で当選。就任直後の議会で岩本氏は、「反原発運動の経験を生かし、安全な原子力行政に取り組む」と答える。
 だが、交付金や東電の寄付を財源に、公共施設建設などの事業に多額の予算を投じた結果、財政が急速に悪化。91年には町議会が原発の増設を求めて決議。岩本町長は、「企業誘致などでは追いつかない財源が得られる」として、原発推進派の筆頭格となる。
 岩本氏の後継者として町長選に出た大塚氏はいう。「今思えば、まんまと国策にはまったんだと分かる。正常な判断ができなくなってしまうほど、カネの力、原子力政策の力は強かった」。
 岩本氏はかつて書いていた。町にとって原発推進は「負けられない大きな賭け」なのだ、と。古い盟友古市氏はいう。彼は、「ある時は住民のために原発に反対し、ある時は町民の生活を守るために原発と共存しながら一生懸命やっていた。最後に事故になり、自ら放射能を浴び、いろんな批判をかぶって死んでいった」。
 
 町民が推進派の町長を選び、県民が推進派の知事を選ぶ。出稼ぎの町ゆえに原発のカネにすがろうとしたという面もあるかもしれない。
 だが、地方の町民、県民のことではない。
もしかすると、「あんな大事故があったのに、原発推進派の町長を選ぶなんて! 推進派の知事を選ぶなんて!」、と思う人がいるかもしれない。
 しかし外国には、こう思っている人がいるだろう。「あんな大事故があったのに、原発継続派の首相を選ぶなんて!」。
●2011年9月22日 野田佳彦首相、国連原子力安全会合で「原発輸出は継続」と演説
 野田首相は、国連本部で開かれた「原子力安全及び核セキュリティーに関する国連ハイレベル会合」で演説し、「原子力の利用を模索する国々の関心に応える」と述べ、原子力関連技術の向上と原発輸出は継続する姿勢を鮮明にした。