ライト(4)

 泥沼に入りこまないようにしますが。
 「xは?」「2πです」「ライト」。生徒の答えが「正しい」かどうかは、正解に「照らして」、「合っている」かどうかで「判定」されます。でも、基準となるその「正解」が「正しい」解であるかどうかは、同じ手続きでは判定できません。という意味で、正解の正しさは、判定にとってメタレベルの「正しさ」です。もちろん、その「正しさ」もまた、メタレベルで疑ってもいいわけで、「先生、2πは間違ってませんか」「え? おお、rが抜けとった。そうだ、2πrだ。わりいわりい」。
 とまあ、こういう時はいいのですが、ご承知のように、なかなか厄介な場合が少なくありません。早い話が、法律第何条に「照らして」、「正しく」ない違反行為だという「判定」つまり判決に対して、「裁判官、法律が間違ってませんか」といっても、「わりいわりい」とはいってはくれません。
 ところで、そのように、判決の基準となる法律は法廷にとってメタレベルの存在で、つまり国王個人であれ議会であれ、立法者は高みにいるのですが、しかし、大体法律を作ったりそれで裁いたりするのは、現行秩序を毀したり乱したりしたくないからなので、普通は、安定支配という点から立法と司法はグルになっています。スカート丈の校則を決めるのも先生、校則に照らして個々の判定をするのも先生、というのがシステムとして一番やりやすい。
 ただ、こういうシステムは、往々にして生徒から不満の声が起こりえます。「あの先生の判定は正しくない」というレベルの訴えなら校長が何とか対応できますが、「そもそも校則が正しくない」というレベルの不満が爆発すると、これはちょっと大変で、「校則管理主義ハンタイ!」などと、システムを揺るがす事件にもなりかねません。
 「どうして彼女は停学なんですか」「校則違反です、校則というのはいわば学校内の法律ですよ、法律に合わない行動をすることは「正しく(ライト)」ありません、処分は当然です」「でも、スカート丈で停学は不当です、私たちは、自分の服装を自分で決める権利(ライト)をもっています、校則の方が不当なんです、正当(ライト)じゃないんです」・・・。
 例えば、1848年といえば大昔で、しかもフランスという遠い外国の話ですが、いわゆる2月革命後、階級対立激化により蜂起した労働者に対して、ブルジョア政府は法律違反だとして徹底弾圧し、数千人を虐殺したのでしたそうです。で、ずっと後にサルトルという人が、「1848年5月から6月にかけて、合法性が正当性を虐殺した」、といったとのこと。(→ここ)その言葉を借りれば、先生たちは合法性に依拠し、生徒たちは正当性で対抗するわけです。けれども、それでは、「正当性」とはどういうことなのでしょうか。