政治利用しかできない

 とにかく、どちらに付く人も、どちらを批判する人も、右も左も、結局同じことをいっています。「政治利用しちゃいかん!」。「政治利用はいけない!」。
 何をいってるんですかねえ。「政治利用しちゃいかん」ったって、天皇というのは政治装置そのものでしょう。政治利用するための人身御供制度以外の何ものでもありません。
 開会詔書を読んでもらって国会の権威づけに政治利用する。外国の元首と会見してもらって外交関係の円滑化に政治利用する。などなどなど。
 というと、ただちに反論があるでしょう。「政治利用」とは、そういうことではない。象徴天皇の国事行為や公的行為は、あくまで国家の全体利益に関わる、いわば「超政治的」行為である。それに反して、「政治的」利用とは、天皇を、特定の政治的利益や政治的意図のために利用することなのだ、とか何とか。ひとことでいえば、天皇を国家利益、全体利益のために利用することはOKだが、特定利益のために利用することはバツ、「政治利用」だ、というわけです。
 何をいってるんですかねえ。特定利益から遊離した全体利益なんてものこそが、支配的な特定利益によって作り出された幻想でしかないというのは、政治学の初歩でしょう。いわゆる民主主義システムというのは、全体利益などというものは「ない」、というより「あるはずがない」という原理に基づいています。あるはずがないものを作り出す、いわば虚構工作手続きが多数決原理です。
 というわけで、現人神の時代はともかく、多数決国家の象徴となった以上は、天皇のあらゆる行為は、「特定利益による政治利用」に他なりません。例えば、時の首相が自党あるいは自分個人の特定利益を最大限考えに考えた上で、解散を決断します。で、決断した首相は天皇を「政治利用し」、解散詔書の発行?を「指示する」わけです。実においたわしいことに、天皇は逆らうことができません。・・というように。
 で、今回のことについては(続く)