書くです

 少数ながら定期的に訪れて下さる方もいらっしゃるようで、更新があきすぎないように、思いつきですが、日本語に関する雑記を時々入れてゆくことにします。但し、内容はご期待なく(^_^)。
 今回は、「明日旅行に行くです」、という表現についてです。
 先日、何かとお騒がせのGoogleが、新しい日本語入力システムを発表したようです。といっても、土台から新しい変換システムを開発したというより、お得意の検索力で、多数変換例を変換候補として提示するという仕組みとか。いわば生きた辞書というわけで、使ったことはありませんが、結構いいようです。
 日本語入力システムといえば、徳島県の小さな会社が苦労して開発したFEP(今はフロントエンドプロセッサーといういい方はしないのでしょうか)であるATOKのおかげで、日本語がパソコンで気軽に操れるようになったわけですが、その後ATOKを搭載した「一太郎」は、「Word」という、アメリカ人の利便を第一に考えたソフトに圧倒されてしまいます。日本語というか日本文にとっては、大変使い勝手が悪く実にいらいらさせる(個人的感想(^_^))ダメソフトですが、文書その他は相手が読めなければ仕方ありません。ゲイツの抱き売り商法によって、ビジネス世界で、ワードをはじめとする「オフィス」が事実上の「標準」になってしまっているのは腹立たしいことです。ただし、ブラウザではFirefox過半数になったらしいように、直接相手に関係ないものは別で、日本語入力についても、IMEより絶対優れているATOKを使っている人は、私も含めて、結構多いようです。なのですが、今度のGoogleシステムは、ATOKにとっても、脅威でしょうね。
 見たことも使ったこともないので、見当違いの理解かもしれませんが、従来のシステムでは、一定の学習はしてくれますが、特別登録しない限りは、「当初から辞書にあった=辞書版元が正しいと認めた」読み書きの範囲を越えられません。その範囲を越えると、変換しなかったりお節介メッセージが出たりするわけです。対して、Googleシステムというのは、世の中(各分野別になっているそうですが)の使用例で辞書が日々更新されてゆくということらしく、ということは、「言葉なんてものは使えば正しい」ということになるのでしょう。
 例えば、「食べれる」と書くと<ら抜き>ですよというお節介メッセージが出るシステムなら、そのお節介が消えるのは、「食べれる」は問題ないとシステムの開発管理者側で判断した時からでしょう。しかし、実際には「食べれる」と書いている人は多いわけで、いっそ版元の編集者は介入せず、世間の人々の日々の読み書きの現場で、なし崩しに進行する変化をそのまま辞書に反映させようという方法は、なるほどと思わせます。
 見たことも使ったこともないシステムのことを書きすぎましたが(従って全く誤解しているかもしれません)、今日の問題は、「書くです」についてです。
 いわゆる「食べれる」のような「ら抜き」表現は、昨今ではすっかり普及してしまいました。ご承知のように、当初若者誤用と見なされ顰蹙をかっていた(こういう字が変換できるのを幸いと文中で使うのはやめた方がいいのかどうかも保留しておきますが)「ら抜き」がこれほど普及したのは、「ら抜き」が日本語変化の順当な流れに乗っているからであって、だから後戻りせずに定着するだろうといわれています。
 私は使いませんが、確かに便利です。書く、読むのような、5段活用語(Ⅰグループ語)では、可能を表す「書ける」「読める」という動詞があるので、受動の「書かれる」「読まれる」と混同することはないのですが、2段活用語(Ⅱグループ語)では、「can eat」「be eaten」が、共に「食べられる」となって区別できません。そこで、このグループの動詞にも、「書ける」「読める」にならって「食べれる」といういい方を使えば、「can eat食べれる」と「be eaten食べられる」が区別できます(ただし、敬語の「食べられる」とは同じですが)。しかも、地域的歴史的な視点を入れれば、「ら抜き」は、決して新奇なものではなく、むしろ広域的長期的な日本語の変化の流れに沿っているようです。
 それに対して、時折ブログで見かける「行くです」はどうでしょうか。
 「行くです」表現は、ごく一部のブログで使われているだけ(のよう)で、「ら抜き」のようには普及していませんし、単なる一時的流行として終わるのかもしれませんが、もしかするとこれももしかするかもしれません。
 日本語には、いわゆる「である、だ体」と「です、ます体(調?)」があります(「でございます体」を別に立てる説もあるようですが)。ご覧の通り、この文も「です、ます体」なのですが、もともと話し言葉である「ですます」文で書いていると、時々しっくり来ないことがあります。
  彼女は大学生だ(である)。物腰がとても静かだ(である)。背が高い。この駅から電車に乗る。
 これを、「です、ます体」にすると、一応こうなります。 
  彼女は大学生です。とても静かです。背が高いです。ここから電車に乗ります。
 どうでしょうか。「背が高いです」という「形容詞です文」に、違和感を感じるか感じないか、どちらでしょうか。
 中には、「とても静かだ」という文にひっかかる方がいるかもしれません。「とても」は、もと「とても買えない」のように否定形で受けたのですが、明治末期頃から「とても美しい」のような肯定表現が使われ出したということで、これに違和感を覚える人は、もはや少ないだろうと思われます。対して、 「高いです」のような「形容詞です文」は、「昭和10年代までは由緒正しいと認められなかったが、現代では認められている」(広辞苑)ということで、いわば戦後表現ということになります。比較的新しいので、今でも「多少ぎこちなく感じられる」(明解国語辞典)のは無理からぬところでしょう。
 もちろん、「この車は少し高いですが」「素晴らしいですね」のように、会話の中で「です」の後に何かが付けば、「ぎこちなく」ありません。しかし、手紙の中で、「流石に富士山は高いです。頂上からの眺めはすばらしいです。」と書いてあれば、何となく舌足らずというか落ち着きの悪さを感じないでしょうか。(感じなければそれでいいのですが。というほど、今日は、どうでもよいネタなのですが(^_^)、一応辞書にも「多少ぎこちなく感じられる」とありますので、無理にでも感じてもらって、先に進みます)。