いくつ話すか

 (承前)カタコト語も含めて、あらゆる場面でありうるパーソナルなパロールの揺らぎのことは、どうでもいいというか何とも面倒なのでさし当たり無視しますが、もう少し大きいレベルで、人は何種類のことばを話せばいいのでしょうか。
 例えば、D・クリスタルという言語学者がいて、「消滅する言語」という新書もあるようですが、私は読んでいません。だからどこか他のところで読んだのだと思うのですが、この人がいっているらしいと覚えていることがあって、それは、英語支配の進行が進んだ究極の世界では、人々は3種類の英語を使うようになるだろうという話です。
 言語の数え方にもいろいろ問題があるでしょうが、今はそのことはおくとして、現在、世界中には6千以上の言語があるとされています。でも、言語の多様性は、いま危機に瀕しており、日に日に少数言語が、その背景である文化や社会と共に消えてゆきつつあります。クリスタルの上記の本も、題名しか知らないのですが、まさにその問題を扱っているのでしょう。もちろん、逆に支配を強めつつあるのは英語です。この傾向を単純に延長すると、遂に、日本語も含めてあらゆる他の言語が消滅し、ただ英語だけが残った世界になるかもしれない、ということになります。まあ、そう簡単はゆかないでしょうが、ともかく仮に万一そうなったとすればどうなるのかというと、そこで人々は、3種類の英語を使って生活するだろう、というのです。大まかにいえば、家族などとは母語的な英語で話し、学校の先生や取引相手とは国家標準の英語で話し、外国人とは国際標準の英語で話す、というように。
 オール英語になるかどうかという話は、いまはおきますが、一体人はいくつのことばを話せばよいかということでいえば、3種類というのは、大体納得できる数かもしれません。もちろん、コミュニケーションの場は無数に重層化していますので、細かく分ければ、カタコト語から条約正文まで、実に無様のことばが使われるのは当然ですが、大雑把にいえば、という話です。