3つのことばで話せ

 「3」についてですが、もちろんいろんなケースがあるでしょう。例えば、それぞれことばが違う多部族が混住する地域は、自然に、人数が多い有力部族のことばが共通語となってゆき、ところが、その地域が植民地にされて、宗主国のことばが公用語と決められ、特に支配機構に組み込まれた人々は宗主国語を身につける、というようなことも起こります。ところがさらにまた、その地域が自らを解放して新国家を建国すると、旧宗主国語、有力部族語、各自部族語の3つが残ります。何も解放後に宗主国語を使わなければいいようなものですが、有力部族語に文字や文書語があったとしても、なお諸般の事情から使われるケースがあるようです。そのような場合には、旧宗主国語が、生活圏共用語、国単位の共通語、国際語のうち第二、三にまたがる役割を果たすことになりますが、ただしその語が国際語として通用力不足の場合は、さらに外側にもうひとつ、あわせて4になるかもしれません。といった具合に、その他、無数のケースがあるでしょう。
 が、そういった様々なケースをまるめていってしまえば、ともかく、ことばの通用圏を基本的に3層に図式化し、それに3つのことばを対応させるのは、一応うなずけます。そういえば、昨年だったか、水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』という本が話題になりました。まるで小説のような前半部分を特に面白く読ませてもらいましたが、氏の構図も、確か地方語、国語、国際語(英語)という3層でした。
 さて、なぜこんな「3」にこだわるのかということですが、確かにこれまでのところは、この「3」は、私たちにとって、あまり大した意味をもっていませんでした。ところが、こんなところにも例の「グローバル時代」というやつが大きな顔を出すようになって、少しは考えておいた方がよいような気配なのです。
 例えば、いつの間にか私たちは、どうやら、これからの時代を生きるには3種類のことばを使わねばならない、と強要されているようなのです。例えば、方言といわれる地域生活語も大事だ、しかし何より国語が大事だ、そしてこれからの時代には、英語もいっそ第二公用語にしよう、などと。
 実に大変なことになってきているようです。