2-2 醤油

 行く先のない漂流だが、醤油からはじめている。
 さて、生まれを日本に決めると、醤油は味噌の溜まりから、ということになるようだ。
 教会内で多発した子供へのレイプ事件については、ようやく法王が謝罪したらしいが、それは極端な破戒にしても、戒律の必要な悪魔の罠はあちこちにある。もちろん飲食もまた快であり欲であって放縦は戒められる。ボナベンチュラだったか誰だったか忘れたが、思わず聞き惚れそうになった鳥の囀りを「悪魔の誘惑だ!」と叫んだという位だから、旨い物を飲食することは当然信仰の敵で、修道院では食事中に大声でバイブルを朗唱し、飲食を「味気なく」させる。しかし、以前クザヌスゆかりのワインを頂いたこともあるが、修道院からは、数々の銘品の飲み物や食品や料理が産み出され、伝えられてゆく。と、遠回りに書き始めたが、同様な事情はもちろん西洋だけではない。例えば沢庵は東海寺の禅師からだということになっている。
 さて南宋に径山寺という名刹があって、そこで刻んだ野菜を味噌につけ込んだ保存食が作られていたのだが、鎌倉時代のこと、信州に生まれ東大寺で学んだ後高野山に登った、後の法燈円明国師覚心が、宋に渡った際にその味噌の製法を身につけた。帰国後彼は、請われて紀州由良は興国寺の開祖となり、その製法を地元民に教えた。こうして近隣に拡がって受け継がれた経山寺(金山寺)味噌は、今も紀州和歌山の名産品のひとつとなっている。
 そこで醤油であるが、由良の少し北に湯浅という地があって、そこの村民が径山寺味噌を間違って仕込んだところ、偶然、今の「たまり醤油」に似たものが出来た、それが醤油の始まりだ、という伝説がある。径山寺味噌には瓜や茄子や生姜や紫蘇といった野菜がふんだんに入っているから、作り方によっては水分が浸みだして溜まるだろう。間違えたのがきっかけだったかどうかは別として、少なくとも改良を重ねて製法を固定し、商品化して売り出したのは湯浅の人だったようである。ということで、醤油発祥の地湯浅には、今も伝統的な製法を伝える醸造元の町屋や蔵などが並び、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 ちなみに、いま大量生産地として有名な千葉の醤油は、1645年廣屋儀兵衛商店の創業を以てはじまる。初代濱口儀兵衛は、「地域防災」の先駆者など数多い功績で知られるが、彼もまた紀州湯浅の人である。いまはヤマサ醤油となっているが、その「サ」は紀州の「キ」を横に倒したものであるらしい。
 ということなのだが、先を急ぐと、江戸の大消費地化に対応すべく、同じ1640年代に、たまり醤油から、より簡便な製法の「濃口醤油」が考案され、これで、関東型の醤油の歴史が軌道に乗ったことになる。
 だが、もうひとつの系統がある。いうまでもなく関西型の醤油需要に欠かせない「薄口醤油」である。こちらの方は、1666年に播磨の龍野、現在の兵庫県たつの市で、ヒガシマル醤油の創業者である円尾孫右衛門長徳という人が考案したといわれている。
 というわけで、もってまわって、醤油発祥の地、紀州湯浅と播磨龍野が並んだわけである。