2-3 龍野

 江戸時代から紀州湯浅とともに有名であった播磨龍野であるが、龍野の薄口醤油は、消費の中心地であった上方へ、どのように運ばれたのだろうか。醤油発案時には天領であった龍野は、数年後に脇坂藩となって、そのまま幕末を迎えるが、揖保川沿いの鶏籠山に城をもつ城下町である。薄口醤油は、その揖保川を、高瀬船で網干(現姫路市)まで下ろされ、そこから上方へと運ばれたようだ。
 1913年大正2年の晩秋11月12日、早朝というよりは深夜に龍野の家を出て、鶏籠山を背に揖保川沿いの道を歩く少年がいた。目指すは2里8キロ先の網干駅である。制服制帽から、龍野中の生徒だと知れる。龍野中学校は、彼の生まれた1897年明治30年に設立されたが、彼は09年に入学して、最高学年である。
 旧制の中学生はエリートであり、大人びている。文芸部委員であった彼は、この年、学生歌を作詞している。詞には曲がつけられ、一時校歌に使われた後、学生歌として歌い継がれることになる。
   嗚呼秀麗の臺の山
   千秋の姿影清し
   嗟溶々の揖保の水
   萬古の流色深し
   高明の気は茲に凝り
   沈潜の象茲に成る
 臺の山は鶏籠山である。現在でいえば高校2年生、出来はともかく、城山と揖保川を配して、精一杯肩肘張った堂々の詞である。
 ついでに2番。
   其の盛大の気を受けて
   此の清冽の色に染み
   昇天の翼鍛うべく
   浮薄の巷他所に見て
   我が蛍雪の学舎に
   籠もるは龍雛四百人
 鶏籠山の盛大と揖保川の清冽を一身に受けて、龍雛エリートは、浮薄の巷から天に昇ろうと意気盛んである。
 翌年春一高に進む筈の彼は、同じ龍野の先輩矢野勘治が作った有名な一高寮歌を知っていたであろう。
   嗚呼玉杯に花うけて
   緑酒に月の影宿し
   治安の夢に耽りたる
   栄華の巷低く見て
 産業革命を経験し、日清日露の戦争を経て、大日本帝国は、浮薄の栄華を誇っている。その「浮薄の巷」「栄華の巷」を、「他所に見」また「低く見て」、エリート青年たちは何処へ昇ろうとしているのであろうか。