2-4 網干発

 少しお詫びしておきたい。醤油の話は単なるマクラである。暁の播州龍野を出発した少年が、伊勢奈良を回って紀州和歌山へ立ち寄ったという話をしようとしているだけで、播州紀州といっても、この少年には薄口醤油も溜まり醤油も関係はない。
 それに、書き方も悪かったが、少年は一人ではない。竜野中学生たちは、今でいえば修学旅行に行くのである。早暁というより深夜というべき多分3時頃に、列を組んで城下の校門を出たか、少なくとも友人たちと連れだって歩いていったに違いない。当時の学生や生徒たちは、エリート集団を誇示するように、しばしば高歌放吟する。この時も、「アァ秀麗のォ臺の山ァ」などと歌いながらの徒歩行だったのではなかろうか。
 もうひとつ。道についても早速間違った。薄口醤油をはじめとする物産は、龍野から揖保川網干港まで下ったのであるが、龍野城下から山陽線網干駅に向かう少年たちは、龍野から川と分かれて姫路方面へ向かう出雲街道を選んだであろう。
 それにしても2里は遠い。  
 今、たつの市の中心地から最も近い駅は、岡山県新見から姫路に向かう姫新線の「本竜野」である。龍野高校(旧龍野中)や薄口醤油資料館が山麓に展開する鶏籠山側から、揖保橋を渡った東側に駅がある。ただし、当時はまだこの線は敷かれていない。その代わり、09年から龍野電鉄という会社が、龍野と網干港の間にチンチン電車を走らせていた。 この路線は、経営を換えながら最終的には網干港駅と新宮町駅の間で営業するが、30年代に姫新線の開業で客数が減って廃線になる。というわけで、普通なら少年たちは、最寄りの「龍野町」駅から電車に乗れた。
 もうひとつ、現山陽本線には、網干のひとつ西に「竜野」駅がある。龍野城下からは南にかなり離れているが、それでも網干よりは近い。
 前回触れたように1888年(明21年)にスタートした山陽鉄道は、翌年神戸駅で官営鉄道と接続。90年には網干駅竜野駅もできて、さらに西へと延伸される。そして、日清開戦の年1894年に、大本営が置かれる広島に駅が開業し、突貫工事で宇品港までの軍用鉄路も敷かれ、戦争を支える。ちなみに、前回触れたかどうか忘れたが、長距離急行列車も食堂車も寝台車も、当時のこの線を走ったのが本邦初である。なお、日露戦争終結の翌年、基幹鉄道支配という国策に基いて実施された国有化によって、網干駅竜野駅も既に山陽本線の駅となっている。
 ということで、この年13年には、「龍野町駅」も「竜野駅」もあった。ところが、この日、龍野中生たちは、遠い網干駅まで歩いたのである。おそらく、「龍野町」駅はもちろん「龍野」駅でも、払暁に乗れる電車や汽車がなかったからだろう。
 ともかく二里の道を歩いて来た龍野中生らは、おそらく網干駅始発の一番列車だったであろう4時48分発の汽車で出発する。
 意気軒昂の強行軍である。