2-5 伊勢、奈良

 龍野中生の旅を追おう。
 早暁網干駅を発った汽車は山陽本線を走って梅田(大阪)に着く。そこで城東線(現環状線)に乗り換えて、天王寺へ。そして一行は、天王寺発8時40分の鳥羽行きに乗り、多分車中で弁当を食べたであろう、1時半に山田駅に着いている。現在、山田という名の駅は全国に沢山あり、近辺には宇治山田、山田上口という駅もあるのでややこしいが、龍野中生たちが着いたのは、現在の「伊勢市」駅である。この駅は、彼らが生まれた年に参宮鉄道の駅として作られ、今は近鉄鳥羽線とJR参宮線の合同駅になっている。つまり、龍野中生たちの第一の目的は、伊勢神宮参拝だったのである。
 学校単位の集団研修旅行つまり「修学旅行」は、当時既に拡がりつつあったが、旅行に伊勢神宮参拝を組み込むことが本格的に奨励されるのは、天皇制イデオロギの教育支配が強められる昭和期になってからだろう。この時代の旧制中学にとって伊勢神宮参拝旅行がどの程度一般的であったのかなかったのかは知らないが、翌日、姫路中の旅行団にもすれ違っている。
 さて、前日の強行軍にもかかわらず、生徒たちは朝5時に起きている。当時の学徒集団旅行には行軍訓練に似た意味もあったのだろう。まだ暗い道を早くも学生歌を大声で「怒鳴」りながら駅へ向かう。そして、二見に寄ってから、関西本線で奈良へ向かうのだが、途中わざわざ笠置駅で降りて、山に登っている。
 軽い茶々をひとつ。「うぃっしゅ」のDAIGOは本名から来ているらしいが、一昔前「ガンダーラ」の流行で「ゴダイゴ」の名を知った殆どの人々は、実際の由来は知らないまま、学校で習った「後醍醐」の名を思い出したであろう。笠置山は、1331年、天皇後醍醐が三種の神器を擁して遂に挙兵した山である。龍野中生たちは、国家神道の本庁である伊勢神宮を参拝した後、天皇ゴダイゴゆかりの山へ登ったのである。
 今年2010年は、「韓国併合百年」の年であり「大逆事件百年」の年である。本来ならば、決して通り過ぎることは許されないのだが、この昔話では、敢えて1910年11年は飛び越えて、13年を選んだのであった。だが、やはり触れずに通過はできないようだ。
 笠置山での挙兵は失敗して、後醍醐は隠岐に流されるのだが、ご承知の通りやがて幕府が倒れた後、後醍醐は建武新政によって権力の中枢に座を占める。だが後醍醐政権は長続きしない。そこから歴史は南北朝分裂の時代に入ってゆく。
 南北朝は、天皇の血統が二つに分かれて対立した時代である。そしていま、1913年。世の中は、南北朝正閏論、すなわち北朝南朝いずれが正統かの問題で揺れている。
 1910年、些細な事件を利用してねつ造された大逆陰謀の嫌疑で、幸徳以下大量の「主義者」たちが引っ括られ、ろくな審理もないまま、翌11年1月には、早くも幸徳以下12名に死刑の判決が出され、ただちに処刑が執行されてしまう。
 ここでは、大逆事件についても事件が引きおこした大きな波紋についても触れないが、大逆事件は、南北朝正閏論にも大きな影響を与えた。すなわち、幸徳が法廷で、「今の天皇も、南朝天皇から神器を奪い位を奪い命を奪った北朝の系統ではないか」と発言したらしいことが、処刑直後に外部にもれ、正閏論の火に油が注がれたのである。こうして両統論が激しく退けられ、帝国議会南朝正統を決議。そして、この流れに乗って、翌12年に発表された上杉慎吉天皇主権説が、やがて天皇機関説を駆逐して、国体論の基礎となってゆく。
 龍野中生たちは、このような歴史の流れのただ中にある13年に、ゴダイゴの山に登ったのである。