2-7 南海、浜寺

 閑話休題
 普通、県庁所在地は県の中心近くにあるが、和歌山県県都和歌山市大阪府に接しており、現在、大阪市和歌山市の間には南海電車JR阪和線という2つの路線があって、それぞれ1時間以内で両市を結んでいる。平行する二つの鉄道の間には長年の複雑な競争史があるのだが、後者が阪和電気鉄道として天王寺と東和歌山駅の間を全通させるのは1930年だから、当時はまだ南海一本だった。
 南海鉄道は、活気のあった関西経済界の手で、早くも1885(明18)年に、難波駅から出る阪堺鉄道としてスタートしている。「忠臣楠公」ならぬ「忠犬ハチ公」の渋谷駅も同じ年に開業するが、この年13年には東横線井の頭線もまだない。だが南海電鉄は既に、今と同じ難波〜和歌山市間の全線電化を完成させており、天王寺支線(現在は廃線)もできている。前に、中学生一行は何故和歌山などへ行ったのだろうかと書いたのだが、ともかく当時、和歌山はそういう所だったのである。 
 というわけで、龍野中生たちは、天王寺南海電車に乗車して、途中、浜寺(浜寺公園駅)で乗り換えて和歌山へ向かう。当時の浜寺公園駅は多数の乗降客があり、折り返し列車も多かった。東京駅で有名な辰野金吾が設計し、国の有形文化財に登録されている駅舎が有名で、百年を越えた美しい木造平屋建ての洋風駅舎を今も見ることができる(→ここここで写真を見せてもらえる)。乗り換えの際には、中学生が大勢乗ったからだろう、満員となって、現在では考えられないが何人かが貨車に乗せられたという。
 閑話休題と書いたばかりだが、またまた浜寺公園駅で途中下車。
 正月にした百人一首の中に、高師浜(たかしがはま)の歌があったのを覚えている。
   音にきく高師濱のあだ波は 掛けしや袖の濡れもこそすれ
 浜寺、高師浜一帯は、古代から紀州、熊野への街道筋にあたり、白砂青松の海岸を擁する景勝地として音に聞こえていたが、明治以降も、上に触れたように南海電車の便もよく、風光明媚な関西屈指のリゾート地として栄えた。だが、敗戦により進駐した占領軍がここに目を付け、米軍の住宅地、保養地として接収して、浜への日本人の立ち入りを禁じてしまう。ようやく1958年に全面返還されるのだが、時期が悪かった。引き続き起こった高度成長期の嵐に乗って、大阪人は、「東洋一の海水浴場」をも埋め立て、一大工業地帯に変えてしまう。
 ちなみにもうひとつ残念な閑話。南海電車では、何と90年代まで、地元の泉州河内弁や和歌山弁で車内放送をしていたのだが、関空ができることになって、国際空港の連絡鉄道として相応しくないという、よくある類のつまらぬ声に負け、折角の地元風味の放送を変えてしまったという。
 ということで、いよいよ閑話休題、と思ったのだが、どうせ行く宛てのない放浪筆である。南海に触れて、ホークスに言及しないわけにはゆかなくなった(^o^)。もちろん、全くの横道であり閑話であるが。