2-9 八咫烏

 もう一度書くが、今風の観光なら伊勢奈良の次は京都だろうし、天皇で通すなら浜寺近くの仁徳天皇陵に行く手もあっただろうに、何故播州龍野の中学生一行は、わざわざ紀州和歌山へ行ったのか。
 自分の土地の悪口をいわれても怒らずに笑うのは紀州和歌山の人と播磨の人だ、と好意的に書いているサイト(→ここ)があるが、本当だろうか(^o^)。だとすれば共通性は醤油だけではないことになるが、それはともかく、播磨の中学生たちはこの時紀州に行くことを喜んでいる。「泣く児に蜜柑を食はせるぞと云ったら泣き止むといういふくらゐ澤山出る蜜柑のあの艶な皮の色、他人種が好んで身につけるといふ綿ネルの匂、さうしたものに穏柔な濃い情緒の南国の町和歌山市が思はれて、若い旅人の血は湧くのである」。
 ここでまた、「綿」が出てくるのだが、その前に一応。 
 サッカー・ワールドカップは、大会だけでなくジャパンの方も盛り上がらないが、そのシンボルが三本足の八咫烏(やたがらす)であることはご承知の通り。昔軍人の最高栄誉勲章に使われた金鵄と重ねられる神話上の鳥で、神武東征軍を熊野から案内する。神武東征の神話がある程度歴史的事実を反映しているのなら、熊野に上陸した天孫軍団に地元一族が帰順し、北上して大和に至る征服行の案内役を買って出たのでもあろう。
 熊野を牟婁(ムロ)郡というのは朝鮮語に由来するという説もあるが、三本足の鶏は高句麗古王朝の象徴だというから、天皇の祖族は、九州からまたは朝鮮半島から東征して来た高句麗系の征服軍団だったのだろうか。あるいは熊野の地元一族が朝鮮出自だったのだろうか。いい加減な話はやめるが、時代が下って戦国時代、八咫烏は、雑賀衆を率いる鈴木孫一(市)の旗印となって、龍野中生たちが南海電車で着いた和歌山市駅前には、いま孫一の像がある。
 先に触れたトラ先生は、「若大夫」と自称されている。中世末期まで、この地では紀州国一揆と呼ばれる大寺院と百姓による自治共和国が栄華を誇っていたが、根来と共にその中心を担っていた雑賀惣国のリーダーが鈴木孫一。その盟友でありライバルだったのが土橋「若大夫」である。
 歴史の中の雑賀惣国一揆あるいは紀州惣国については、例えばここでも見て頂くことにして、ともかく、宣教師フロイスが「仏僧だけで八千人から一万人おり、千五百以上の寺院・屋敷は日本の寺院中もっとも清潔で黄金に包まれ絢爛豪華であった」と書いた根来共和国も、強力な武装根来衆の抵抗もかなわず秀吉軍の侵攻により炎上し、また、信長最大の敵一向一揆の総本山大阪本願寺を支援し、強力な水軍や鉄砲衆で信長を退けた雑賀惣国も、長大な堤防を築いて紀ノ川を氾濫させるという水攻め作戦を取った秀吉の前に遂に敗退する。こうして、中世は紀州惣国で終わり、近世は紀州惣国の滅亡の後に始まったのである。「信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである」(上記)。
 という歴史的地政学的条件から、冬の陣夏の陣を経て成立した徳川「天下人」政権は、大阪を望むこの地に御三家の一つを配し、城を築かせて固める必要があった。と、古代から近世までを通過して、紀州は将軍を出した藩ながら幕末もうまく立ち回って、さて20世紀はじめに戻る。