「可哀想」も金次第(続き)

 「何かがカワイイ!ってなると、それが虐められるのはカワイソー!ってことになる。問題は、何をカワイイと思うかってことだよな。シューっとやられたゴキブリの断末魔を映画にとっても、ナウシカ以外だれもカワイソーとは見てくれない。犬猫はじめペット動物の場合はもちろんカワイイという声が圧倒的だけど、人との接点が多いから、一方では迷惑だって思う者もいる。その点、イルカは得だよね。普通の人とは接点がないから、イメージだけで見てくれる。
 え? イルカは頭がよくて会話ができるから特別じゃないかって? それはどうかね。山ザルはもちろんだけどカラスなんかでも、捕まえたり追っ払ったりしようとすると、どれだけ「知恵比べ」が必要か、集団丸ごと捕まえるなんてこと、なかなかできるもんじゃないだろ。イルカも智慧があって会話できるんなら、「今日は船の様子がおかしいから湾に入るとヤバイぜ」なんて話になる筈だよね。だから、きっと連中は大変友好的で、「そろそろあの湾に行って集団で捕まってやろうぜ」、なんて互いに話し合って、連れだって網に入りに来てくれるんだろうな。んなことないか(^o^)。やっぱカワイイかどうかが全てってことだよ。
 その点、牛なんか、微妙なところだね。闘牛はなぶり殺しそのものだから流石に最近は旗色悪いみたいだけど、アメリカのロデオなんかも、イヤがってる牛や馬の背中に無理に乗っかって周りではやし立てるってんだから、イジメ遊びだね、あれは。いや別に、闘牛でもロデオでも、やりたいヤツはやればいいんだけどね。人間を殺したり殴ったりだってするんだから、牛をイジメて遊ぶ位どうってことないさ。でも連中も、犬だったら、イジメてはやし立てるなんて遊びは、多分しないだろ。中国や朝鮮半島じゃ犬料理の文化があるみたいだけど、西洋人からヤバンだといわれるから隠してる。牛は、血のしたたるステーキ食ってもいいけど、犬はイカン、ってわけさ。
 といっても、そういう選択序列付けは、理屈じゃないから、どうしようもない。牛を食べながら(ベジタリアンでも食べる隣人を黙認しながら)、「犬カワイソウ」っていったり、「イルカがカワイソウ!」って涙流したりするのは、マジにそう思ってるんだからね。で、そう思ってしまったら、告発映画だって作るだろ、そりゃ。止められない。カワイイ、カワイソウが正義になっちゃうんだから。隠し撮りとか肖像権無視とかいわれても、正義の告発だからってことでパスできるし、人種差別を指摘されても、そんなつもりは全くないってスルーする。マジメな正義なんだよ、多分。
 数日前の「天声人語」に中野好夫が引用されてたの、覚えてる? 記憶だから不正確だけど、「ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情の二つにつきる」っていってる。「彼らは動機が善意であるなら責任が解除されると思っているらしい。切々として善意を語り、純情を披瀝する」。「五十歳を超えても純情を売り物にしている不思議な人物もいる」、なんてね。
 とにかく、そういうことだからどうしようもないし、ま、放っとけばいいんじゃないの。「ゴキブリがカワイソウ」映画だって「イルカがカワイソウ」映画だって、善意と純情で、あるいは善意と純情だと偽って、作りたい人がいたり見せたい人がいるなら、止められないよ。町の人には迷惑な話だけどね。いや、善意と純情はえてして押し売りされるから、きっと「町の人たちも映画を見て一緒に話し合いましょう!」なんていうんだよね、これがまた。
 で、何の話だったっけ。あ、そうそう、金の話だ。(続く)