作品はエライ 

 何を問題にしたのか分かりにくい書き方だったので、もう少していねいに書きます。となると、長くなってしまい、逆の意味でまずいのですが。
 例えば、チャタレー事件や破防法の昔から、様々な裁判や運動にはそれぞれ、弁護戦略や運動戦術があります。で、ある戦略に従って、例えば、いま告発されている小説は「芸術作品」であり、問題の表現には「芸術的必然性」がある、決して卑猥ではない、といった弁護をしたとします。すると、そのような弁護は、「そこいらのエロ小説はいざ知らず」とか「マンガのような低劣ジャンルはいざ知らず」、などといった言辞を言外に含んでしまいます。しかし、そのことを指摘することはいいとしても、それを楯に弁護戦略を頭から非難することは、必ずしも正しくありません。もちろん、逆に、そのような指摘は弁護妨害だと非難することも間違いです。以下は、そういったことが分かった上での話です。
 例えば、「幼児性愛を表現したマンガ作品を一律に規制することは、表現の自由に鑑みて許されない」、といったいい方には、別に問題はないように見えます。
 一方、例えば藤原新也氏は、署名依頼を前にして、次のように書いておられます。「ゆゆしいことだ。いかなる場合も表現と言論の自由は守られねばならない。ただ、今回の「ザ・コーヴ」問題に関しては、言論の自由という大儀(ママ)のもと、すぐさま賛同するという気になれない」。「人権侵害、あるいは人種差別というものが色濃く出ている可能性のある作品がかりに法に触れないにしても(触れるのかも知れない)表現の自由という名のもとに擁護されるべきなのかどうなのか、軽々とは賛同しかねるのである」。このような保留も、もっともなことでしょう。
 A 捕鯨反対映画が上映されようとした。右翼団体が上映やめろという街頭宣伝を行った。それに対して、「上映やめるな」という運動が起こって、署名用紙が回ってきた。
 B 民族差別映画が上映されようとした。人権団体が上映やめろという街頭宣伝を行った。それに対して、「上映やめるな」という運動が起こって、署名用紙が回ってきた。
 2枚の署名用紙を前にして、AとBで同じ対応をしなければならないということはありません。けれども、もしAの署名依頼に「表現の自由」ということばが使われていて、そして、表現の自由を妨害することはあってはならない、という理由から署名に応じたとするなら、Bについても、署名した方が筋が通るでしょう。あくまで筋という話ではありますが。
 藤原氏が保留された理由も、ここに微妙に関係して来ます。
 さてしかし、実はこれからが本題なのですが、少し違う角度で見てみます。上のA、Bを使ってもいいのですが、ついでに別の例を並べてみましょう。
 C Hマンガの店頭販売に反対して、PTA団体がビラを貼り、書店に販売をやめるよう申し入れたところ、ネット上のあるサイトに、マンガファンらによるPTA批判の書き込みがあふれた。
 D 民族差別映画の上映に反対して、人権団体が集会を開き、映画館に上映をやめるよう申し入れたところ、差別意識をもった人たちから人権団体に対して、抗議の電話が掛かってきた。
 あまりいい例じゃないかもしれませんが、ご注目頂きたいのは、内容ではなく、ことばの使い方です。もし、C、Dのようなケースで、「表現の自由」ということばが使われるとすれば、おそらく次のような文脈になるでしょう。
 C 「マンガ作品の規制は、表現の自由の侵害だ」、「いや、表現の自由といっても、公共の福祉に反するマンガの販売は規制すべきだ」、など。
 D 「映画作品の上映禁止は、表現の自由の侵害だ」、「いや、表現の自由の名の下に、人権を侵害する映画を上映することは許されない」、など。
 A、Bについていったことは繰り返しませんが、今回私が気にしているのは、このような議論を成り立たせている、賛否双方の間の共通了解です。
 CでもDでも賛成派も反対派も、「表現の自由」とは、作家が何かを表現するためにマンガや映画といった作品を自由に制作し公開することだ、ということを相互了解した上で、それを制限したり規制することの是非を議論しています。
 思えば、マンガや映画に反対するPTA団体や人権団体の活動もまた、それぞれの思いや意見の「表現」ですし、反批判的なネットへの書き込みや抗議の電話も同様です。けれども普通は(多くの場合)、「表現の自由」は、マンガや映画といった「作品」を巡って議論されます。そしてその際、普通は、PTA団体のビラが美術作品と認められたり、人権団体のシュプレヒコールが演劇作品と認められたりはしないでしょう。ネットへの書き込みや抗議電話も同様です。
 かつてのように、「芸術作品」が「愚劣なエロ小説や低級なマンガなど」を差別的に見下すことはなくなりました。けれども、「作家」の手になる「作品」には、なおそれなりの身分保障があるようです。
 そこで、前回記事に戻ります。Hマンガについては、Hといえどもマンガ作品には「表現の自由」がある、という擁護も期待できるでしょう。だが、H写真を机に置いたという行動については、それ位「自由」にさせてやれよという擁護はあっても、「表現の自由」という立派な?ことばは使ってもらえず、あっさり上司からやめさせられるでしょう、多分。
 かつては「芸術」がエラかったのですが、今も、作家の「作品」はエラいのです。