本を読む 1 (5)〜

       (5)
 そういえば昔「連帯」などということばが流行りましたが、今はもう「同じ市民として」とか「同じ女性として」とかいっただけで連帯しよう連帯できるという時代ではなくなり、リベラリズムフェミニズムは、「自由と自己決定」を原理に、各自やりましょうという方に傾いていて、一方、「自他同一性」や「共感」などは、「父親」語源のパターナリズムの原理となって、家族を典型とする狭い内々の世界に追いやられている。とまあ、そのような現状にあるのでしょうか。
 さてしかし、著者は、そのような現状に、難問があるといいます。
● 「フェミニズムは、パターナリズムリベラリズムの間で、いくつもの難問・ジレンマを抱え込んでいる。」(4)
 「フェミニズムが」難問を抱え込んでいると書かれていますが、少なくとも発端は、リベラリズムに与してずっとやってきた「フェミニスト」が体験的に直面するであろうジレンマのようで、(前著から引き継がれたらしい)次のような事例が挙げられます。
● 「見えてきたことは、「リベラリズムの寛容さの限界」ともいうべき問題であった。「貴方の自己決定を尊重する/ご自由に」とする自由主義的原則のスタンスもそれが自分の親密圏に及ばないかぎりでのことであり、問題が自分の身内や親友のこととなれば、パターナリズム的な介入に及び、あなたのことをわがこととして思うがゆえの自他同一視の倫理の発動となる。」(4)
 つまり、次のような対比ですね。
  * 自分の親密圏に及ばないかぎりでは  リベラリズム的寛容の態度、自由主義的原則のスタンス
  * 自分の親密圏のことになると  パターナリズム的な介入に及び、自他同一視の倫理が発動

 ここで「自分」というのはもちろん「イズム(原理)」ではなく「イスト(人)」です。多少抽象的ないい方ですが、この後すぐ続けて、典型な具体例をあげて敷衍されます。
● 「それはセックスワーク問題あるいは性同一性障害の人の性転換手術問題において、シンパシーの感情の境界線が身内の内外で引かれていることを見れば明らかだ。」(4-5)
 勝手な想像で、違っていれば申し訳ないのですが、例えばこういうことなのでしょうか。
  * 身内や親友でない場合  「セックスワーク?性転換? あなたが決めることだから、ご自由に」
  * 身内や親友の場合  「ちょっ、ちょっと待ってよ。そんなこと、私なら絶対しない。やめなよ、それは」

 このように整理すれば、著者が、冒頭で触れたように、カタカナ語二つを対比させ、それを「態度」と呼んだ理由がよく分かります。問題は、少なくとも出発点では、フェミニストにとっての、「親密圏内での身内への態度」vs「親密圏外での他人への態度」にあったのですね。
 ということで、以下議論は、「親密圏」の内外を巡って展開します。(そこで、「親密圏」とは何かということが気になりますが、今は「身内や親友」とされているままにしておきます。先ず家族、そして近い親族や親しい友人、といった人たちが想定されているのでしょう。)
       (6)
 典型的な事例としてあげられた「セックスワーク問題あるいは性同一性障害の人の性転換手術問題」は、躓きの石の資格十分です。確かに、日頃「自由と自立」を論じ「自己決定」への寛容を宣言していても、娘から風俗バイトをするといわれて、平然と無関心でいられるわけはないですよね。大きなジレンマを感じるのは、余りにも当然のことでしょう。
  A: <一般論では認める でも 身内には認めない>
 「ちょ、ちょと待って。あなた、何いってるの。自分の意志だからったって、あなた、それはないでしょ! そりゃ確かにいったわよ。セックスワーカーだって職業だから、自由意思による自己決定なら問題ないって。でもそれは理屈よ。身内のこととなると話が違う。 自由にしなさいなんて、とてもいえない。でも、差別じゃないわよ。え? 矛盾してるって? しててもしてなくても、とにかくダメよ。 あ〜、でも、難問・ジレンマだわ!」
 気持ちは大変よく分かります。与してきたリベラリズムと身内感情のジレンマに、私も悩むでしょう。
 けれども、そうだとすれば、私がもしリベラルな人ではなく保守頑固の人なら、ジレンマとは無縁でいられることになります。
  B: <一般論として認めない 身内にも認めない>
 「何いってるの! まともな人間のすることじゃないでしょ! 絶対だめっ!」。
 こんな高圧的な態度で事態がうまく運ぶとは思えませんから、別の悩みは尽きないでしょうが、でも思想信条に揺らぎはありません。
 ということは、フェミニストが直面するジレンマとは、「進んだ」イズムをもったが故の、いうならば特権的な(といえばいい過ぎでしょうが、特別の)ジレンマといえるかもしれません。イズムを生きようとしてイズムを貫けないジレンマですね。
 ただそうなると、またまた図式的で恐縮ですが、イズムを生きる前に人生を生きる人々、何イストでもない人々の人生態度が、他にも浮かんできます。
  C: <一般論でも認める 身内にも認める>
 「あんた、映画に出たっていうから楽しみにしてたら、AVなの?! え?馬鹿、娘のエッチシーンなんか見たかないわよ! でもまあ、どんな映画でも、とにかく出られたんだからよかったじゃない。仕事は仕事。自分で決めた以上は、人から何いわれたって気にすることない。いつまでもできることじゃないだろうけど、体張ってやれば、またどんな道が開けるかもしれないからね。じゃ、がんばってね。また電話する。一応ビデオも送っといて。」
 図式的にはあと一つ、<一般論では認めるが身内には認めない>というフェミニストとは、全く逆の態度の人も考えられます。
  D: <一般論では認めなかった でも 身内には認める>
 「そりゃ驚いたわよ。性転換なんて、とてもまともな人間のすることじゃないって思ってたもの。それが突然、自分の娘から打ち明けられたんだからね。ほんとにもう、全身が震える位驚いたわ。もしも、誰か他のお母さんから相談されたのだったら、「そんなのまともじゃないんだから、精神科か何かに連れて行って、やめさせなきゃ」、って答えたでしょうね、きっと。でもねえ、どうしてか分からないけど、あなたから打ち明けられたとき、とっさにそういう風には思わなかった。他人じゃなくて、やっぱり自分の娘だからかなあ。不思議だけど、真っ先に思ったのよね、誰よりも先ず、私が分かってあげないと、って。」
 CやDはどうなのでしょうか。自分の娘のAV出演を喜んだり、わが娘だからこそ性転換を応援したりするような人はいるのでしょうか。もちろんいると思いますが、いるいないは、今どちらでもいいのです。ここではただ、またしても前回同様の図式化で大変恐縮ですが、<一般論として認める/認めない>と<娘に認める/認めない>を組合せると、A〜D4通りの態度が考えられるということを確認すれば足ります。
 著者が、フェミニストのジレンマ、つまり「シンパシーの感情の境界線が身内の内外で引かれていることを見れば明らかだ。」(5)と書くとき、それは上記Aのことでしょうが、ただし保守一貫の人Bは背後で想定されているでしょう。けれども、前回と同じようなことをいって恐縮ですが、CやDはどうなのでしょうか。文中での言及がないことが、もし意識の外に置かれていることを意味するなら、そこから透けて見える何かがあるような気がします。
 ただし、ここでもまた、そのことで著者を批判しようというのではないということは後に述べます。
       (7)
 ではその何か、とは何なのでしょうか。「あなたのこと」を「わがこと」とする、というところから、見直してみましょう。
 前回にも触れた話に戻りますが、古典的な時代には、例えば、「良家の女性」が「醜業女性」に対して、「貴女と妾は異なる境遇世界に生きてはいても、殿方の手にある籠の鳥という同じ身の上、苦界の悲しみには同じ女として共感できますわ」と涙する、といった情景を想像することが可能でした。もちろん、そんな良家婦人を偽善的だというのは正しいでしょうが、「態度」としてはありえたでしょう。ところが、時代が変わります。
 「昔売られて泣く泣く女郎、今は自ら風俗商売」という作られた図式が流布する一方、論者たちが、セックスワークというカタカナ語を作って「醜業」差別を越えたと主張するようになりました。それはヘテロというカタカナ語を思いつくことでホモ差別を越えたと主張するのと同じだ、などといえば、皮肉が過ぎるでしょうか。
 「私はホモセクシャルを差別していない。たまたま私はヘテロだというだけで、ホモの方はご自由に」。「私は彼女たちを差別していない。たまたま私は大学教授というだけで、セックスワーカーの方はご自由に」。確かではありませんが、東大の先生か誰かが、新聞紙上かどこかで、これに似たことを書かれているのを読んだ記憶があります。もちろんそれを、古典的な差別を批判して現代風のポリティカルライトな差別に移行しただけのことだ、などといってはいけません。権威ある啓蒙的発言は、差別解消へ向けての歩みに大きく貢献します。
 ただ、ひそかに気が付くのは、ここで、ホモセクシャルセックスワークが(もちろんそれは一例ですが)、「わがこと」から「排除される」ことで理論上、つまり一般的に「許容される」ということです。
 親友が郵便局に就職しようとしていると聞いて「やめた方がいいよ」と「口出し」する人はいません。たまたま物書きでありセックスワーカーである、というのはもちろん正論ですが、でも一日局長はどんな文化人でもやりますが、おそらく中村うさぎさんだけでしょう、一日セックスワーカーをやる(やれる、やった)人は。
 もしもフェミニズムフェミニスト)が「難問・ジレンマを抱え込んでいる」とするなら、それはパターナリズムリベラリズムの間、身内や親友に対する態度とそれ以外の人に対する態度の間ではじめて発生したのではなく、それ以前に、セックスワークといったカタカナ語を使うだけで、その仕事を「わがこと」から切り離して(郵便局員のように)相対化できたと思ったときから発生した問題なのでしょう。「シンパシーの感情の境界線」は、「身内の内外で引かれている」(5)のではなく、カタカナ語の職業と「わがこと」の間に引かれたままです。
       (8)
 とはいえ、これは決して批判の類ではありません。
 普遍的妥当性を要求するイズムと、煩悩生身のイストの間に横たわる深淵は、確かに永遠の「難問・ジレンマ」かもしれません。義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい主義者の世界。
 けれども、家を持ち貯金をしている共産主義者とか、似たことはそこら中にいっぱい転がっていることであって、フェミニストだけがまじめに「難問・ジレンマ」を感じる事なんか全くありません。あるいは、最初の(1)に戻ってもいうなら、「現代音楽を持ち上げる評論書いてるからウェーベルンとか聴いてるのかと思ったら、自宅ではモーツアルトなんか聴いてやんの」、てなものでしょうか。別にいいじゃないですか。というか、当たり前でしょう。モーツアルトを聴き、平凡堅実な夫婦生活を営む論者が書いたとしても、「調性からの解放」とか「セックスワーカー差別批判」といった評論は、明らかに解放のための重要な前進であって、生身の生活で、理論の輝きが減るわけではありません。というか、評論なんて、所詮そんなものでしょう。もちろん、いい意味で。
 と、私などは開き直るところですが、それは凡人俗人の限界なのでしょうね。フェミニストであろうと他のイストであろうと、不真面目な凡人俗人をよそに、真面目にジレンマを感じて自らを問い進め、イズムに問い返す人が確かにいます。もちろん、問いが他人に向けられると、山中の粛清などが起こりかねませんが、自ら一身の問題として自らの生身をイズムに合わそうとする求道家の道、あるいは信奉するイズムを生身の苦悩から改革しようとする理論家の道は、ともに畏敬に値します。ともあれ、フェミニストの方々は真面目なのか、フェミニズムが全人格的思想だということなのか、おそらくその両方なのでしょうが、いま「フェミニズム」が、更なる問いを問われているのでしょう。
 う〜ん、まだ僅か3頁ほどしか読んでいないのに、全く意図せず、おかしな所に来てしまいました。「書かれていることは、全体としてはよく分かるし、特に異論があるわけではありません」と書いた通りで、以上はちょっとした付箋に過ぎません。ご破算にして、本筋に戻りましょう。
● 「(フェミニズムにとって)はたしてパターナリズム倫理をどう位置づけるかは、一つの大きな課題として残されているといえよう。」(5)
 とにかくこれが、本筋の問題なのでしょう。平たく乱暴に言い直してしまうことが許されるなら、こうでしょうか。「女性の自由と自立を求め、「自己決定と自由意思」の側に立って、女性を束縛してきた家族の解体と、担わされてきた重荷の「社会化」を応援してきたけど、ケアについては、「自己責任」に傾いちゃ、ちょっとまずいんじゃないの? どういう政策を理論的に提言する?」。いずれにしても、問題意識に異論はありません。